12月例会は12月7日(土)開催
令和6年12月7日(土)13時より「横浜市開港記念会館 2階6号室」
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
*会場は横浜市開港記念会館 2階6号室です。お間違えの無いようご確認ください。
(1)竹内秀一さん・・・演題「三浦半島の古代東海道」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答も含む)
ア)足柄峠を越え相模の国に入った初期の古代東海道は相模国府を経て房総半島の上総国に向かったとされています。上総へのルートはどういう経路をとったのでしょうか?
イ)古事記、日本書紀には有名なヤマトタケルの伝説が書かれています。妻女の弟橘媛が東京湾に身を投げ、神をなだめヤマトタケルは無事走水の海を渡海したとされています。
ウ)果たして古代東海道もこの三浦半島ルートをとったのでしょうか。そうであるなら、三浦半島のどこを古代東海道は通過したのかなどについてお話したいと思います。
★竹内さんの古代道のお話もいよいよ我々の地元である相模シリーズになりました。江戸時代を知っている現代人の我々は、ついつい相模~武蔵~常陸のルートを想像してしまいます。そのあたりの真相を竹内さんが詳しく話していただけると思います。楽しみですね。
(2)木村高久さん・・・演題「弥生時代における金属器の謎について」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)かつては、弥生時代の指標が「弥生土器」であり、弥生時代の開始は紀元前4世紀頃と言われ、その時に水田稲作と金属器(銅・鉄)がほぼ同時に伝来したと述べられていた。その後、指標が「水田稲作の開始」へ変更し、かつ、弥生時代の開始が紀元前10世紀(紀元前8世紀説あり)と遡ったのである。この結果、弥生時代の前半は新石器文化であり、後半(紀元前4世紀頃以降)は金属器文化(一部金石併用)となった。同じ弥生時代でも新石器文化期間と金属器文化期間で何が変わったのだろうか。
イ)弥生時代最古の青銅器は、紀元前8世紀に今川遺跡(福岡県)から発見された銅ノミである。中国東北部で作成された遼寧式銅剣の破片を加工したものといわれる。その後、紀元前4世紀頃になり北九州の有力者達の墓から副葬品として青銅器武器が出土する。ところで、これら青銅器製品および原材料の産地はどこか。また、交易ネットワークは?
ウ)日本最古の鉄器は、燕国で紀元前5世紀頃につくられた鉄斧であるが、一般に使用されるようになったのは紀元前4世紀頃からである。鉄は銅とは異なり農具、工具、武器などの利器として使用された。さて、九州と近畿では鉄器の出土数に大きな差がある。圧倒的に九州が多いいのだ。しかるに近畿が政治の中心となったのは何故だろうか。
★弥生時代のはじまりを紀元前10世紀ごろであると発表したのは、国立歴史民俗博物館ですね。それと同時に最近は、縄文時代の晩期には、すでに稲作が始まっていたとの説も発表されていますね。これらと金属器文化のかかわりなど、大変興味深いお題目です。楽しみですね。
(3)加藤導男さん・・・演題「渋沢栄一翁外伝」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)今年の7月に、新しい紙幣が発行されましたが、一万円札には「渋沢栄一」が採用されました。
イ)その渋沢栄一は、500社以上におよぶ企業を創業され、「日本近代資本主義の父」と呼ばれており、その他、慈善団体等にも尽力をされるなど、日本屈指の大実業家と言われております。
ウ)その中でも、日本最初の銀行として、第一国立銀行(後の第一銀行)を設立しましたが、最近ではNHK大河ドラマ(2021年『青天を衝け』)にも採り上げられました。
★加藤さんは、この第一銀行に入行され、渋沢栄一が都市計画し、開発した田園調布の支店にも勤務されており、渋沢一族との親交もあったそうです。因みに、当会に入会された動機も渋沢栄一が創業した団体の方の紹介によるとのことでした。興味深い話が聞けると思います。楽しみですね。
会場:横浜市開港記念会館
会場:横浜市開港記念会館1F(1号室)
横浜市中区本町1-6 ☎045-224-8135
横浜市営地下鉄関内駅1番出口から徒歩10分
JR関内駅南口から徒歩10分
みなとみらい線日本大通り駅
1番出口から徒歩1分
11月例会は11月3日(日)開催
令和6年11月3日(日)13時より「横浜市開港記念会館 1階1号室」
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
*会場は横浜市開港記念会館です。お間違えの無いよう下図をご確認ください。
(1)平 博子さん・・・演題「幕末日本に大きな影響を与えた英国外交官 アーネスト・サトウ」 (午後1時10分~2時10分/質疑応答も含む)
ア)アーネスト・サトウは1843年ロンドンに生まれた。兄が借りてきた「エルギン卿遣日使節禄」(オリファント著)を読んで日本に関心を持ち、1862年19歳でイギリス外務省日本領事館の通訳生として来日した。来日してから6日目に生麦事件が起こる。
イ)卓越した語学力(候文の読み書きができた)を生かし、薩摩・長州の志士たちとも文通し、イギリスの対日外交に大いに貢献した。1866年に著した「英国策論」は朝廷・諸藩・幕府勢力にも広く読まれ、倒幕勢力の精神的支柱となる。
ウ)日本に関する言語・考古学・歴史に関する論文や旅行案内など数多くの著作を執筆した。1884年以降バンコク、ウルグアイ、モロッコに転任し、1895年再び日本公使として来日した。その後清国公使になり、1906年に45年に及ぶ外交官生活から引退し、1929年86歳で逝去する。サトウが日本の幕末維新史に与えた影響は大きく、一部ではあるがその生涯をご紹介したい。
★東洋西洋を問わず、イケメン研究に邁進される平さんの発表です。面白い話が聞けると思います。因みに、日本にはもう一人アーネストサトウがおりますね。写真家で京都市立美術大学教授、本名は佐藤善夫。日本人の父とアメリカ人宣教師の母との間に生まれたとあります(1990年まで存命でした)。
(2)高尾隆さん・・・演題「異才の邂逅 山岡鉄舟と三遊亭圓朝」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)幕末から明治へと移る激動の時代に生き、それぞれが後世に素晴らしい足跡を残した二人。山岡鉄舟と三遊亭円朝。
イ)相容れることのないような、生き方も住む世界もまったく違う二人が出合い交流した明治とはなんだったのか?二人の共通点は短絡で性急に世の中を変えようとする風潮に抗って日本の性根に寄り添うことだったのではないかと思う。当会で歴史を学び、多くの歴史人を知ることができた。
ウ)剣術家と落語家。私の心の中で珠玉のごとき存在の二人の出会いと別れ、二人にまつわる幕末維新の群像をお話したいと思います。
★山岡鉄舟と三遊亭圓朝、なんともユニークな組み合わせです。「邂逅」つまり思いがけず出会った二人、という観点からして非常に興味深いですね。高尾さんがご嗜好される物事の双璧と思われる剣術と落語、という分野をブレンドされながらのお話しになるのでしょうか、非常に楽しみです。
(3)真野 信治さん・・・演題「プロデュースされた赤穂事件」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)誰もが知ってる元禄時代に起こった仇討事件。史実的には、松乃廊下の刃傷事件と旧赤穂藩士による吉良邸への討ち入り事件。これを合わせて「赤穂事件」と言い、その後、歌舞伎・人形浄瑠璃の演目から『忠臣蔵』と呼ばれるようになり、現代の我々に深く浸透している。
イ)大きな特徴として、「忠臣蔵」の全てのエピソードが人情味溢れる感動的な話として伝わっている。が、果たしてそのすべてが真実を語っているかと言えば、そうではない。
ウ)今回は、浅野内匠頭と吉良上野助の心の内に分け入り、松乃廊下刃傷事件の真相を追ってみる。また、赤穂事件をプロデュースした人物にスポットをあて、さらには大石内蔵助の討入りの本音にも迫ってみたい。
★赤穂事件(忠臣蔵)と一口に行っても、刃傷事件と討ち入り事件とに分かれますね。最近の研究成果として、この事件を果たして“仇討ち”と言っていいのかという論調が少なくありません。そう考えると、討ち入 り時に大石内蔵助がしたためた「浅野内匠家来口上」の内容が気になることころです。
会場:横浜市開港記念会館
会場:横浜市開港記念会館1F(1号室)
横浜市中区本町1-6 ☎045-224-8135
横浜市営地下鉄関内駅1番出口から徒歩10分
JR関内駅南口から徒歩10分
みなとみらい線日本大通り駅
1番出口から徒歩1分
10月例会は10月5日(土)開催
令和6年10月5日(土)13時より「横浜市開港記念会館 1階1号室」
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
*会場は横浜市開港記念会館です。お間違えの無いよう下図をご確認ください。
(1)森 彩子さん・・・演題「横浜外国人居留地 ~横浜居留地覚書と外人墓地~」 (午後1時10分~2時10分/質疑応答も含む)
ア)今から165年前、1859年(安政6)に日本は開国し、その開港場となった横浜には外国人居留地と日本人居住地が指定されました。開港の翌年、現在の山下町の一部に居留地が設けられ、その地域は順次拡張されていきます。
イ)そこには、幕府と外国が取り交わした「横浜居留地覚書」などの取り決めが存在していました。「横浜居留地覚書」とは、どのようなものだったのでしょうか。それらの取り決めにより、横浜の関内・山手・本牧地区の町の骨格が作られていきます。
ウ)その後、約40年間続いた居留地制度は、不平等条約が改正された5年後の1899年(明治32)に廃止されます。ここでは、「覚書」をはじめとする取り決めと、その条文に含まれた外国人墓地から、幕末・明治時代、確かにそこに存在していた外国人社会を想起してみたいと思います。
★幕末から明治にかけて、この横浜はどのような移り変わりを見せたのか?森様の専門研究テーマですね。外国人居留地が決まっていたのにも関わらず起こってしまった「生麦事件」も含め、貴重なお話が聞けると思います。
(2)中村康男さん・・・演題「画狂老人卍北斎の凄さと執念」(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)葛飾北斎の生活ぶりから、彼は「奇人」と呼ばれてます。彼の生活は非常に自由奔放で、常に創作に情熱を注いでいました。その奇才ぶりが数多くの優れた作品を生み出す原動力となりました。北斎の魅力はその凄さと執念です。北斎の生きざまは人生百年の時代においても大いに参考になると思われます。
イ)北斎の人間性と彼の作品との間には密接な因果関係があると思われます。そこで北斎の交友関係から北斎の人となりに着目します。北斎とシーボルトの関係にも触れます。
ウ)北斎の評価は、日本より海外の方が高いと言えます。まず、19世紀後半、ヨーロッパの印象派のゴッホやモネ及び作曲家のドビュッシーに影響を与えました。近年、ロンドンの大英博物館は北斎の芸術的才能や作品を高く評価しています。国境を越えて多くの人々に愛され、評価され続けている北斎に触れます。
★北斎は海外での人気がすごいようです。因みに、来年の大河ドラマの主人公である“蔦重”こと蔦谷重三郎は、この北斎を含め、のちの日本文化の礎を築いた者の才能を見出した版元ですね。
(3)寺田 隆郎さん・・・演題「落語をより深く楽しむための歴史の小ネタ概要」 (午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)前回の復習から 落語の源流について―お伽衆(御咄衆)から生まれたというだけでは不十分。落語の熟成期―幕末から明治にかけて活躍したこの人物の名は、落語について語るうえでは不可欠。落語家の亭号―亭号とは謂わば一般人の苗字に当たるもので、三遊亭、古今亭、柳家、林家、桂など現在使われていないものも含めれば、数百もの亭号がある。噺の分類―落語には面白くてばかばかしい咄ばかりではなく、深刻な涙を誘うような咄や不思議な咄もある。
イ)演目理解の助けとなる歴史的事実 時そば―江戸時代の貨幣単位や時の表し方。明烏や五人廻し―江戸時代の遊郭、特に吉原を舞台とした噺を理解するためのキーワードについて、駒長・錦の袈裟・蛙茶番―「三千世界の烏を殺し~」この都々逸の真の意味は?ふんどしまで貸し借りしていた江戸時代!紫檀楼古木―今はもう無くなってしまった職業についての噺を理解するために掛取り萬歳―失われた文化や風習の総集編!?
ウ)禁演落語―昭和6年当時、日本は日華事変以来の臨戦体制から戦時体制に突入しており、国家総動員法も公布され、政府からは各芸能団体の演題種目について、厳しく自粛が叫ばれていた。落語界としても、国策に沿っていち早く自粛方を協議し、戦時下の時局に相応しくない噺五十三種(遊里・酒・妾・廓話等)を禁演落語として発表し自粛の姿勢を示した。寄席の変遷―京、大坂、江戸でほぼ同時期に寄席と呼べるような口演会が始まるが、京落語はその後・・・。文化文政期の最盛期を経て、やがて弾圧の憂き目をみる。
★今回も寺田さんによる落語の源流などの興味深いお話が聞けると思います。楽しみです。
会場:横浜市開港記念会館
会場:横浜市開港記念会館1F(1号室)
横浜市中区本町1-6 ☎045-224-8135
横浜市営地下鉄関内駅1番出口から徒歩10分
JR関内駅南口から徒歩10分
みなとみらい線日本大通り駅
1番出口から徒歩1分
9月例会は9月7日(土)開催
令和6年9月7日(土)13時より「横浜市開港記念会館 1階1号室」
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
*会場が変わります。お間違えの無いよう下図をご確認ください。
(1)高橋正一さん・・・演題「内裏(天皇の住まい)と廷臣(公家)達の住まいの変遷」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答も含む)
ア)794年、平安京がスタートする。天皇の住まいである内裏は、当初、現在の京都御所より約1.8㎞西南にあった。天皇に仕える廷臣達の邸宅は、概ね内裏の東側か南側に広く点在していた。
イ)現在、上級の廷臣達(公卿=参議以上)の邸宅の規模や位置は、ほぼ判明している。藤原道長の時代、東三条殿・土御門殿などが有名である。当初、内裏に居住していた天皇は火災などにより、これら廷臣の邸宅に仮住まいするようになり、これを「里内裏」と称した。
ウ)1337年、光明天皇の時より、内裏は現在の場所に固定。そして安土桃山時代以降、秀吉・家康により、ほぼ全ての廷臣達の邸宅は、内裏の四方を取り囲むように配置される。明治維新直後、天皇に従い多くの廷臣達は東京に移転した(京都に残った家もある)。以上の変遷を詳しく解説すると共に、貴重な写真も披露したい。
★著作『プチ移住』が大好評であった高橋さんの十八番(オハコ)である京都の街のお話です。ちょうど今年の大河ドラマも京都が舞台ですので、旬な演目かと思われます。高橋さんはご自分の足で様々な京都の街を散策されておりますので、あまり知られていない貴重かつレアなお話が聞けそうですね。<
(2)西沢 昭さん・・・演題「吾妻鏡で見る当時の鎌倉の気候」(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)歴史書である「吾妻鏡」は鎌倉時代の歴史を知る貴重な資料です。ここには毎日の鎌倉の気象が書かれています。気象予報士の知識を用い、当時の気象の記述から、鎌倉時代の湘南地方の気象を読み解くことで、大切な郷土史の資料となると考えます。
イ)例えば、実朝が公暁に暗殺された日は大雪で、積雪2尺と書かれていますが、実際の積雪は?などを加え、今まで会報誌に数回投稿したものを今回まとめて報告します。
ウ)積雪量から見ると、鎌倉時代の湘南地方の気候は現在より平均気温で数℃低く、ちょうど仙台付近の気候のようではなかったかと考えられます。その分台風も少なかったようです。雪の記録と大雨の記録から、当時の気象と生活を考えてみました。
★『吾妻鏡』は確かに鎌倉期前半を知る上では貴重な史料です。様々な出来事が書かれる中、「気象」に注目されているのは斬新です。とかく北条氏側の立場で書かれた記録であると言われていますが、さすがにお天気だけはそのようなスタンスで書くはずがありませんので、非常に興味深いお話が聞けると思います。
*当初予定されていた 高尾 隆さん・・・演題「異才の邂逅 山岡鉄舟と三遊亭圓朝」 は都合により長田 格さんに変更となりました。
(3)長田 格さん・・・演題「熊野古道を歩く」-藤原定家『熊野御幸記』とともに、紀伊路、中辺路- (午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)熊野古道とは、熊野三山への参詣道である。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社をいう。すべて和歌山県にある。その参詣道は、全部で五つある。
紀伊路:大阪から紀伊田辺まで
中辺路:紀伊田辺から本宮、速玉大社、那智大社を巡り、本宮まで
小辺路:高野山から本宮まで
大辺路:紀伊田辺から那智大社まで
伊勢路:伊勢神宮から速玉大社まで
イ)熊野古道は古来、多くの貴族、武士、庶民によって歩かれて来た。記録も多く残されている。その中で藤原定家の記録は、非常に細かく、かつ面白い。定家は、応保2(1162)年~仁治2(1241)年の人で、『新古今和歌集』『小倉百人一首』が著名であるが、もう一つ大きな著作がある。それが18歳から74歳まで56年に渡る克明な日記、『明月記』である。貴族たちの暮らしや政権争奪の有様等がふんだんに記されている。定家は、建仁元(1201)年10月、39歳の時、後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した。この時、紀伊路と中辺路を歩いた。日記の中のこの部分を『熊野御幸記』と呼ぶ。
ウ)筆者は、これまで熊野古道五つのすべてを歩いたが、今回、定家の記録に沿って、紀伊路と中辺路の旅の紹介を行う。
(3)高尾 隆さん・・・演題「異才の邂逅 山岡鉄舟と三遊亭圓朝」は改めてご案内させていただきます。
ア)幕末から明治へと移る激動の時代に生き、それぞれが後世に素晴らしい足跡を残した二人。山岡鉄舟と三遊亭円朝。
イ)相容れることのないような、生き方も住む世界もまったく違う二人が出合い交流した明治とはなんだったのか?二人の共通点は短絡で性急に世の中を変えようとする風潮に抗って日本の性根に寄り添うことだったのではないかと思う。当会で歴史を学び、多くの歴史人を知ることができた。
ウ)剣術家と落語家。私の心の中で珠玉のごとき存在の二人の出会いと別れ、二人にまつわる幕末維新の群像をお話したいと思います。
★山岡鉄舟と三遊亭圓朝、なんともユニークな組み合わせです。「邂逅」つまり思いがけず出会った二人、という観点からして非常に興味深いですね。高尾さんがご嗜好される物事の双璧と思われる剣術と落語、という分野をブレンドされながらのお話しになるのでしょうか、非常に楽しみです。
会場:横浜市開港記念会館
会場:横浜市開港記念会館1F(1号室)
横浜市中区本町1-6 ☎045-224-8135
横浜市営地下鉄関内駅1番出口から徒歩10分
JR関内駅南口から徒歩10分
みなとみらい線日本大通り駅
1番出口から徒歩1分
7月例会は7月6日(土)開催
令和6年7月6日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)熊本修一さん・・・演題「幕末・維新に活躍した軍略家 大村益次郎の功績」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
(ア)村医者の家に生まれた、村田永敏(大村益次郎)は医師修学のため蘭学塾に入塾し蘭学書に接するうちに西洋兵術に興味を持つ。一旦は故郷で開業医となるが、3年で廃業し宇和島藩に出仕する。桂小五郎(木戸孝允)の推薦により長州藩士となり、長州藩の兵学校教授を命じられる。
(イ)その後、軍政専務に任命され長州藩の軍政改革の責任者となり、長州軍の改革に取組み新戦術の教育と徹底を図る。幕府軍の第二次長州征討が始まり、幕府軍の侵略経路を4経路と予想し、大村益次郎は石州口(山陰)の総指揮をとり、長州軍の勝利となり、倒幕の口火を切ることとなる。
(ウ)新政府の軍務官判事となり、旧幕府軍の彰義隊討伐では江戸の住人に被害が及ばないよう配慮し1日で掃討は終了し、徳川の天下から新政府に変わったと世間も感じだした。これを機に関東・奥羽・蝦夷地の旧幕府軍の平定を指揮し維新戦争を早期に終結させることが出来た。明治政府軍の軍制改革を進める途中に刺客に倒れ、突然この世を逝った。大村益次郎の出現がなかったら明治維新は叶わなかったと思う。
★熊本会長は、久々の発表となります。益次郎は趣味らしい趣味はなかったけれど、豆腐を食べることと骨董品を買うことだけが楽しみだったとか。面白いお話が聞けると思います。ご期待ください。
(2)長尾正和さん・・・演題「『関ヶ原の戦い』とは… 最近の研究から」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)「関ケ原の戦い」について旧参謀本部が編纂した「日本の戦史 関ケ原の役」(徳間文庫1994年)では、「天下の覇権が豊臣氏から徳川氏に移るかの分かれ目の戦い・・・豊臣氏は西軍であり、徳川氏は東軍である」と記している。多くの人にとってはこの戦いはいまだにこのようなイメージであるのではないであろうか。
イ)その後この戦いについて多くの研究がなされてきたが、昨年の大河ドラマ「どうする家康」のおかげもあって、最新研究がすっかり出そろった感がある。今回はこの機会を得て、これらを整理し、この戦いがどのような性格のものであったかについて改めてまとめるとともに、なぜこのような決着となったか私見を含めて述べることとしたい。
★いつもながら長尾さんのお題目は、興味深いものです。確かに関ケ原の戦いについては、昨今、続々と新説が発表されていますね。「小早川秀秋は初めから裏切っていた!」など、多岐にわたる最新研究の成果が目に留まります。長尾さんはそんな中から、より興味深い説をピックアップして熱く語っていただけると思います。
(3)竹内章二さん・・・演題「行基 ~菩薩と呼ばれた異能の僧~」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)唐の都に倣い壮大なスケールの平城京が造営され、絢爛たる天平文化が花開いた奈良時代。しかし、それは変乱が相次ぎ、天変地異や疫病に悩まされ、飢饉・飢餓に人々が苦しめられる世でもあった。
イ)律令制度を経世の根幹に置いた朝廷が、もう一つ重視したのは、仏教による国家の安泰である。そのため国の強い統制の下、僧侶は寺院にこもり学問と修行に明け暮れ、国家鎮護を仏に祈った。しかしそれは、民衆の救済を理想とする仏教本来の姿とは異なるものだった。
ウ)そんな中、行基は弟子たちとともに、直接広く民衆への布教に努めた。また困窮者の救済、潅漑池・橋・道路の建設などの社会事業も多大な支持を集め、菩薩と慕われ、大集団となっていく。当初、国は彼らを危険視し弾圧を加えたが、やがては容認し、さらには行基を大僧正に任命する。そして大仏造立という大国家事業の中心的役割を果たさせたのである。多くの行基伝承と足跡からその生涯を辿り、彼の「生き方」の真骨頂を探る。
★竹内副会長の引き出しの多さ・広さにはいつも驚かされます。今回の演題も非常に興味深い題材ですので、ご期待ください。ところで、行基の父親は高志才智(こしのさいち)といい、百済系帰化人の末裔と言われてますが、『日本現報善悪霊異記』はこの「こし」を「越」と誤ってしまい、越後国出身としてしまったという説があります。定説通り、河内国出身とするほうが現実的なようですね。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
6月例会は6月8日(土)開催
令和6年6月8日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)遠田千代吉さん・・・演題「龍になった大津皇子」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)令和6年は、十二支で辰(龍)に当たる。龍は古来、想像の作り上げたものとされている。既に中国では、殷代に「龍」の甲骨文字がみられ、今に流布する龍のイメージは、漢代に形づけられたとされる。日本においても、古くから龍の思想は拡がり、龍は池や淵に棲み、雨をよぶ神(水神)として崇められている。
ロ)『薬師寺縁起』に「大津皇子が二上山で、龍になった」との記載文がみられる。この記述については、史実との対比で検証が必要である。しかしながら、この記載文も、「大津皇子の二上山への埋葬」という背景のなかで生まれている。この記述がなされるに至った背景について、検討してみたい。
ハ)また、現在薬師寺には「龍王社(大津龍王宮)」が祀られ、年々祭礼が行われている。この龍王社と『薬師寺縁起』記載文との関連も検討したいと思っている。 ★大津皇子は従弟の草壁皇子とよく比較されますね。母親同士も同じ母から生まれた姉妹です。皇子は、自分の母(大田皇女)がもう少し長生きしさえすれば持統天皇の代わりに天武天皇の正妻になっていたと思っていたのでしょうか?いずれにしろ、残念な最期を遂げた大津皇子に鋭く迫っていただけることとと思います。
(2)高津正治さん・・・演題「河井継之助…改革者の成功と失敗から学ぶこと」(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
(ア)文政10年(1827年)長岡で生まれた河井継之助は若い頃から才覚を表し、江戸などへの遊学の後に帰国して慶応3年(1867年)には家老職まで昇進した。この間、藩政改革に取り組み、大胆な施策で財政再建を行った。その結果、長岡藩の財政赤字を見事に黒字化することに成功し、剰余金で軍備の近代化なども推進した。
(イ)しかし、戊辰戦争が勃発すると新政府軍との和平交渉に失敗して、長岡の町は戦火に見舞われ焼け野原になってしまう。負傷した河井継之助は会津への移動中に塩沢(現只見町)で怪我が原因で死去する。
(ウ)私の現役時代の仕事では新潟が商圏だったので、地元の方々から河井継之助に関する話は色々と聞いており、改革者としての好評価だけではなく、戦乱勃発への批判意見も多いものだった。河井継之助を主人公とした司馬遼太郎作の「峠」が2022年6月に映画化され、同年秋に北越戊辰戦争での河井継之助の足跡を辿る旅を行なったので、彼の功罪について今回考えてみることにした。
★高津さんは今回初めての発表です。長岡藩の藩政改革に着手した継之助ですが、その中で遊郭禁止令を施行した際の話。それまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われたそうです。こんな逸話も含め、興味深いお話が聞けると思います。
(3)真野信治さん・・・演題「光らない君へ ~きらびやかな王朝絵巻の時代、しかしその裏では?~」(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)紫式部の『源氏物語』執筆を支援し、彼女が才能を発揮できる場を提供した藤原道長。大河ドラマで描かれる道長が「光る君」なのかどうかはわからない。が、少なくとも彼はきらびやかな王朝絵巻の時代を、その頂点に立った人物として、駆け抜けた一人であることは間違いない。
イ)一方、その道長と共に同時代を生き抜いた人々。もちろん、その多くは“光らなかった”人々である。しかし、その中で王朝絵巻の時代を陰で支えていた者たちが存在した。従来、それがどこの誰で、どのように?、ということを本格的に追及してはこなかった。果たしてその実態は… 宮廷貴族か、はたまた地方武士か?
ウ)同様に道長と同じカテゴリー(藤原氏)に属する人々。“光る”可能性があったにもかかわらず、とうとう光らなかった君。しかし、彼らの知られざる活躍が日本を救った事実、或いはそのうっぷんを日記という手段で後世に伝えた者。そのような彼らの生きざまにもスポットをあててみたい。
★NHK大河は、やはり「光る君」の一人を道長としているのでしょうか。しかし、摂関政治の頂点に立つ道長は、実は、それほど「光る」つもりはなく、言うなれば結果的に「光ってしまった」と見るべきかもしれません。一方で、光りたくても光れない君、或いは光らせるためにあえて自分は光らない影となった、という人もいたのでしょうね。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
5月例会は5月6日(月・祝)開催
令和6年5月6日(月・祝)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)佐藤猛夫さん・・・演題「私の歩いた五街道(東海道編)」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
ア)五街道の中でも東海道は、海あり山あり大河ありと変化に富んだ126里(492km)です。古来我が国の歴史上いくつもの大きな出来事の舞台となり、文学芸術にも多くの材料を提供してきました。
イ)街道沿いには記念碑や歌碑が建ち、当時の名残りの一里塚や並木の風景も歩く者の目を楽しませてくれます。かつての旅人は江戸を発つと1日10里(40km)を歩き、13日前後で京都へ入ったとのことですが、私は休日を利用して一日平均20km、延べ28日で京都三条大橋へ着きました。
ウ)時速3.5km、地上1.5mの高さの目線で見た旧東海道を、スライド約100枚を映しながらお話してみようと思います。
★佐藤さんの五街道のお話もいよいよ佳境です。添付の絵は佐藤さん作「薩埵峠から富士山を望む」です。いつものように面白いお話が聞けると思います。因みに広重の「五十三次之内」由井宿ではあるはずの峠の道はなく、そこはただの断崖絶壁として描かれてますね。
(2)酒井晴雄さん・・・演題「「生麦事件」から見た19世紀の世界と地域」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)新型コロナは瞬く間に地球の隅々にまで拡散し、日本も世界の一部であるという当たり前のことに改めて気づかされた。「横浜に住む私に、世界のことは関係ない」は通用しない時代になった。
イ)令和6年は生麦事件発生から162年。今後も新資料が発見されて事件の研究は進展するがそれで事実や評価が一変する可能性は少ない。では、今何故生麦事件を取り上げるのか?コロナ禍の体験を踏まえ、世界史のなかで事件を見直した時に何が見えてくるのか-それを考えるのは今の時期をおいてないと考えたからである。
ウ)とは言え、新資料の発掘や独自の見解を述べることは難しいので、歴史教科書で扱われ誰もが知っている事項(攘夷の風潮、武士の無礼打ち特権、文久改革、薩摩藩の力等々)から生麦事件に迫り、それを通して「19世紀の世界と地域」を考察していく。
★酒井さんは今回初めての発表です。最近なかなか我々の住む地元のお話がないので、非常に楽しみですね。酒井さんのコメントの通り、定説が覆されるほどの新しい史料が発見される確率は低いのですが、島津久光及び薩摩藩首脳は最後までこの出来事を大事(おおごと)とは考えていなかったようですね。
(3)下垣有加さん・・・演題「屋島合戦勃発への経緯と流れ」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)治承寿永の乱(源平合戦)において、頼朝は木曽義仲の軍勢を「宇治川の戦い」で破り、一般的にいうところの源氏(頼朝方)VS平家方の構図が完成したといえる。義仲を討ち取った軍勢は、「一ノ谷の戦い」で平家方と対峙し、これを破る。寿永3年(1184)2月7日のことである。
イ)次におこった合戦で、一般的に知られる合戦は「屋島合戦」だろうが、「屋島合戦」は寿永4年(1185)2月に勃発しており、「一ノ谷の戦い」から「屋島合戦」までは約一年間の隔たりがある。
ウ)この一年間の間に戦況がどう動いて「屋島合戦」に至ったのか。義経の「屋島合戦」への参戦の経緯はどのようなものだったのかなど、先行研究のなかでどのように分析されているかをざっくりと紐解いてみようとおもう。
★同時代史料をくまなく研究する実証第一主義ギャル、下垣さんの発表です。専門は鎌倉時代ですが、その前後の時代についても鋭い洞察力を駆使して真相に迫ってくれると思います。因みにこの空白の一年、「鎌倉にいて女御の尻を追う頼朝・山陽道で兵糧欠乏に苦しむ範頼・京都で干されていた義経」このように源氏兄弟三者三様の状況でしたね。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
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みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
4 月例会は4月4日(木)開催
令和6年4月4日(木)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)丸山雅子さん…演題「近代日本の先駆者Ⅱ 天才数学者小野友五郎」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)前回の発表において、小栗上野介の近代化への功績を述べ、それが歴史上全く評価されていない旨をお話しした。その際、小野友五郎という天才数学者を始めて知った。
ロ)彼は常陸笠間藩下級武士の四男として生まれ、天才的頭脳と数々の功績により幕臣に取り立てられ、勘定奉行並にまで栄達する。主な功績は、咸臨丸の航海長、江戸湾・小笠原群島の実測図の作成、再度の渡米での小野使節団正使など、その功績は日本の近代化に多大な影響を与えた。しかし、そうした功績に反し、知る人ぞ知る、無名に近い人物でもある。
ハ)数学の才能は多彩な分野に応用できるようで、天文・測量・航海術・造船・海防・鉄道施設・製塩など枚挙に遑がない。この友五郎の近代化への功績はあまりにも多すぎるので、①幕府への出仕時代②幕臣時代③明治時代の三つに分けて述べることにした。
★小野友五郎は前月の発表演題「榎本武揚」の海軍伝習所での先輩です。また、彼が購入に関係している軍艦スト―ンウオール号繋がりでもありますね。とかく陰に隠れがちな優秀な幕臣見直しを研究課題のひとつとされる丸山さんの発表にご期待ください。
(2)飯山晴美さん・・・演題「フィールドワーク 赤穂事件」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)赤穂事件は、1701年4月21日(元禄14年3月14日)に、江戸城・松之廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が高家の吉良上野介義央に斬りつけ切腹に処せられた事に端を発し、1703年1月30日(元禄15年12月14日)に、家臣の大石内蔵助以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、亡き主君の浅野内匠頭に代わり吉良上野介らを討つまでの一連のことを言います。
イ)赤穂事件を元とする創作『忠臣蔵』のドラマを観ていると、松の廊下で浅野内匠頭が取り押さえられた次は田村右京大夫の屋敷での切腹のシーンとなる。そしてそこに片岡源五右衛門が駆けつけて・・・江戸城と田村右京大夫の屋敷がまるで隣にあるかように場面が切り替わっていくが、あの日あの時、赤穂事件の関係者はどこからどこまでを移動していたのだろうか?疑問を解決するべく、東京都内のゆかりの場所を実際に歩いて確かめてみました。
ウ)東京都内のゆかりの場所を訪ねて感じた赤穂事件を「独断と偏見」で語りたいと思います
★今回、はじめての発表である飯山さんの、フィールドワークから赤穂事件にアプローチするという斬新な切り口は見事です。どんなお話が聞けるのか非常に楽しみですね。写真はご本人が昨年12月に吉良邸跡を往訪された際のものです。因みに最近の若手研究家は「赤穂四十七士」を「AKO47」というそうです。
(3)古谷多聞さん・・・演題「インパール作戦(昭和19年(1944)3~7月/後編」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)私は常々当会の研究発表は歴史好きで“毎日が日曜日”の老耄のボケ防止策の一策として、また演題のconceptを「戦争の愚かさと国民・将兵の惨めさを風化させてはならじ」に求めてきた。その語り部としての役割を、更に「日本は二度と戦争はせず させず」と反戦・非戦・避戦論者の立場から、烏滸(おこ)がましいのは重々承知の上で「世界平和の尊さ」を会員の皆様方へ問う絶好の場であると心得ている。
イ)今年はインパール作戦から丁度80年、今回は前回の後編として日本陸軍の硬直・腐敗化した体質を織り込んで、主に「作戦中止までの経緯」「師団長の解任・抗命」「白骨街道」のdigest版を、そして時間が許せば「ウクライナ情勢/第三弾」についても愚説を論じたい。
ウ)そして発表終了後には今後の私の学習の糧にすべく皆様方からは忌憚のないご質問・ご批判・反論を鶴首してお待ち申し上げる。
★毎度のことながら、古谷さんの歴史(戦史)探究の熱はますます盛んと感じ入ります。インパール作戦後編とのことで、引き続き興味深いお話が聞けると思います。ご期待ください。因みに勝者であるイギリス側ではこのインパールでの勝利を「グレイテスト・バトル」と評しているとか。やはり英軍も多大なる犠牲を払っているだけにこの勝利の意義をことさら強調したかったのでしょうか。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
3 月例会は3月4日(月)開催
令和6年3月4日(月)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)大瀬克博・・・演題「社会貢献に生きた企業人・米山梅吉」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)米山梅吉は明治元年に生まれ、明治、大正、昭和前期を生きた企業人で日本初のロータリークラブを設立そして初の信託銀行を創設しました。 時代の変革期に生まれ、海外に飛び出し、新しいことに挑戦し続けた生涯は進取の気性に富んでいます。
ロ)米山梅吉は人が喜ぶことそして社会に役立つことは何か、いつも考え行動しました。自利利他の精神です。彼の信条は自ら経験した苦しみや悲しみそして多くの出会いから生まれています。米山は「自分の置かれた立場や環境の中でいかに生きるか」を常に考えていました。
ハ)企業の現役を退いた後はハンセン病療養所建設、結核治療、教育、農村振興など社会貢献活動に熱心に取り組みました。
★「奉仕の人」と言われる米山梅吉は、三井信託銀行を創設し、東京ロータリークラブの初代会長でもありました。一方では漢詩、和歌、俳句もよくした文人で、藍壷(あいつぼ)という雅号も有名です。このように多彩な米山梅吉のいかなるエピソードが語られるか、楽しみですね。
(2)瀬谷俊二郎・・・演題「大日本帝国の崩壊 Part2」(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)Part1では大日本帝国は緒戦で勝利したものの、物量的にも米国の巨大さに抗しきれず1944年以降は敗戦続きで本土が大空襲を受けるようになった迄の話をした。
イ)Part2では1945年のドイツ敗戦後、連合国のポツダム宣言による日本への降伏勧告、2回に及ぶ原爆投下、ソ連の参戦を経て終戦に至る経過を天皇陛下の2度に及ぶご聖断を中心に大日本帝国が崩壊していった経過を話したいと思う。
★ポツダム宣言に関わったアメリカのトルーマン大統領は、実は副大統領に就任してわずか3か月であり、いわば外交のド素人だったのです。したがって、前大統領ルーズベルトの日本への無条件降伏方針を引き継ぐしか術を知りませんでした。
(3)槙 良生・・・演題「信念の外交官 杉原千畝」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)敦賀市は福井県嶺(れい)南(なん)地方の人口6万ほどの中核都市である。古来より交通の要衝で、令和6年3月16日、北陸新幹線の金沢―敦賀間が開業されて東京といよいよ直結される。今回は敦賀に因む話題を取り上げてみたい。
イ)1940年代に「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸したのも敦賀の港だった。第二次世界大戦中にリトアニアのカウナスに赴任していた杉原千(すぎはらち)畝(うね)は、ナチスドイツの迫害を逃れてきた人たちに1940年7月から8月にかけて大量に発行したのだった。
ウ)外務省からは受給条件を満たす者に限定するよう再三勧告をうけていたが、罷免を覚悟でビザを書き続けたのである。彼のヒューマニストとしての決断の過程をたどるとともに、本当の目的であった諜報活動にも着目して、命がけで収集した貴重な情報がなぜ生かされなかったのか、情報の溢れる現代社会も見据えながら考察を進めていきたい。
★「東洋のシンドラー」とも呼ばれた外交官杉原千畝。困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした杉原の勇気と人道性は、現在に至るまで高い評価を受けています。このような杉原の生涯にどのように切り込むか、槙さんのお話にご期待ください。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
2 月例会は2月10日(土)開催
令和6年2月10日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)佐々木眞佐子・・・演題「榎本武揚と箱館戦争」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
ア)『箱館戦争』は、幕末期、幕府海軍副総裁だった榎本武揚が旧幕軍兵約三千とともに軍艦 で蝦夷地へ渡り、箱館五稜郭を拠点として薩長新政府軍に挑んだ戦争であり、『戊辰戦争』 の最後の戦いとして位置付けられている。しかし、一連の『戊辰戦争』の中でも彰義隊や奥 羽越列藩同盟の戦いと比較して、箱館戦争についてはその詳細が知らされる機会はあまり多 くない。
イ)箱館戦争を率いた榎本武揚は、幕府より『開陽丸』という最新の軍艦を預かり、当時の日本においては最強と言われる海軍を統率していた。また榎本は五カ国語を理解する並外れた語学力を有し、オランダ留学時には「海上国際法」を習得するなど軍事における国際的法規についても十分な知識があったとされている。
ウ)そのような榎本が、どのような構想のもとに蝦夷地に渡り、戦おうとしていたのか。最強の榎本艦隊が敗れたのは何故だったのか。箱館•五稜郭を拠点に繰り広げられた攻防について再検証してみたいと思う。
★佐々木さんは今回の発表のため、あらためて函館を訪れ、さらに見聞を深められたようです。百聞は一見に如かずとよく言われますので、新たな発見があったことと思われます。それらを踏まえたホットな佐々木さんのお話にご期待ください。
(2)木村高久・・・演題「予測されている首都直下地震の問題点について」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
ア)昨年は大正関東大震災100年という節目の年であった。しかも2014年(H26)の政府地震調査委員会報告で「首都直下地震が今後30年間に70%の確率で起こる」と指摘されていたのである。しかし、人々の多くは余り地震に関心がないように見受けられた。確かに恐れすぎても良くないが、一方恐れなさ過ぎても心配である。このため私たちは「正しく恐れる」必要がある。すなわち、予測される地震の情報を正しく評価・判断し、そして対策を講ずるべきであろう。
イ)日本に居住する以上、地震から逃れることはできない。特に関東地方は地震の巣と言われている。従って今後、地震は必ずある。しかし、いつ、どこに、どの程度の地震が来るかの予知は現在の科学技術では困難だ。ただし、精密な予知は無理だが、大まかな予測は「地震の歴史」の経験法則から可能である。
ウ)前述の政府地震調査委員会の「今後30年間に70%の確率で起こる」との予測は、まさに過去に発生した大地震を根拠につくられている。すなわち、1703年の元禄関東地震(マグニチュード(以下Mという)8・2)と1923年の大正関東大震災(M7・9)の巨大地震の間(220年)に8つの大地震が発生していることに注目して予測したものだ。この予測は妥当であるのか。もし予測どおり大地震が発生したら被害はどうか。対策はどうかなどにいて論ずるものである。今後、大地震が発生しても被害が0(防災)か、被害がより少なくすること(減災)を目指すために。
★木村さんの最近の深耕研究テーマです。関東大震災は東京だけが被害を受けたわけではなく、我々の横浜地域も甚大なる被害を受けております。その実態がなかなか現市民には浸透していないことを踏まえ、熱く語っていただけることでしょう。
(3)山下美智子・・・演題「覗いて見たい?面白ニッチな歴史アラカルト
~でもちゃんとした歴史なんです!~」(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
ア)もし、江戸に「メンズノンノ」があったら!今流行りの江戸の
ファッション(髪方から、衣服まで)、江戸庶民の定番デートスポットは?
イ)現代の「マスコミでも問題になっている若い女性の性風俗」
そんなもんじゃ足りない江戸の面白性風俗
ウ)だから、宗教で争わない、
大好き!日本の優しい、ゆるーーーい宗教観♡
エ)「ホスト寺」に通った大奥大事件!
オ)「LGBT法」 日本には必要?
カ)ありえない!当時の危険な梅毒治療法は?
キ)日本で一番に「美容整形」に飛びついた女性は?
ク)大日本帝国の闇に葬られた「唐行きさん」
★山下さんは、広く江戸庶民の文化や民俗を研究されています。今回も、非常に興味深いユニークな視点から、ややもすれば艶のあるエピソード、それと意外に知られていない場末の状況、などなどを楽しくユーモアを交えて語ってくれると思います。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
12 月例会は12月4日(月)開催
令和5年12月4日(月)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)金子ユカリ 演題「石田三成 ~徳川政権下によって歪められた人物像に迫る~」 (午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)関ケ原の合戦で敗者となった石田三成は、奸智(かんち)に長けた佞臣(ねいしん:口先巧みに主君にへつらう邪な心を持つ臣下)などと評され、悪評高い人物像が後世にまで伝わっています。「ずる賢い」「策略家」「非情」「冷たい」といったイメージをもたれている方も多いのではないでしょうか。でも一体、そのイメージはどこから湧いてきたのでしょうか。大河ドラマ?小説?
ロ)歴史は勝者が作るものだといわれます。家康を崇拝するために三成を殊更に悪く言っているのかも? 三成に関する史料があまり残されていなかったり、研究されていなかったりするからでは? そのせいで人物像がゆがめられてしまったのかも、との疑念がふつふつと湧き起こり、始めたのが三成研究です。
ハ)後世の編纂物(二次史料)によって三成はどのように評価されてきたのか、当時の文書・記録(一次史料)にはどのように記されているのかを探ることで、真の三成像に迫りたいと思います。
★石田三成を「さりとてはの者」と一押しする金子さんの研究成果です。江戸期に入ると、天下を取った家康の政治的正統性を担保する史料ばかりです。その中で、家康に敵対したことで、悪役にされてしまった可能性のある三成。本当の三成は、いかなる人物であったのか?金子さんの発表にご期待ください。
(2)平 博子 演題「文久三年(1863)横浜鎖港談判使節について」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
イ)文久3年、攘夷の嵐が吹き荒れている中、幕府は開港した横浜港を鎖港(外国船の入港、交易を禁止)すべく、外交使節団をヨーロッパに派遣した。幕府は談判が成功するとは思っておらず、朝廷に対しての見せかけであり、交渉が長引いている間に国内の情勢が変わるだろうという「ぶらかし外交」であった。
ロ)使節団は池田長発(ながおき)外国奉行を正使として、総勢33名であった。しかし最初の訪問国フランスでの交渉は失敗に終わり、使節団は他のヨーロッパ諸国の訪問を諦め、当初の予定とは違う「パリ約定」を締結して帰国した。帰国後、使命を果たさなかったとして、正使、副使、目付は家禄減、隠居、閉門などの処分を受けた。
ハ)池田は、帰国時に①外国への公使派遣②外国留学促進③海外渡航解禁などの開明的な「建白書」を幕府に提出している。当時は顧みられることはなかったが、その後の日本の在り方に影響を与えたことは間違いなく、もっと評価されてもよいのではないか。
★歴史上の人物の中で、特にイケメンに特化した研究に定評のある平博子さんの発表です。幕末に列強と渡り合った幕臣の外交官は意外に優秀な人物が多い、そのことはあまり知られていません。このイケメン池田はピラミッドを見ながら何を考えていたのでしょうか?平さんのお話は非常に楽しみですね。
(3)上野 隆千 演題「江戸300諸藩の経済的困窮~備中松山藩・山田方谷の藩政改革」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
イ)明治維新での版籍奉還・廃藩置県と代々続いていた諸大名が、経営権を新政府に渡すとういう大変革が混乱もなく出来たのは何故か。その背景には全国約300藩の経済的困窮があったのも見逃せない。
ロ)領地の分捕り合戦もなくなり、限られた領地の中で秀吉時代から続く米の収入に頼った藩財政、元禄期に代表される経済復興に伴う相対的米の価値の低下、プライド優先で貨幣経済に出遅れた藩財政。加えて参勤交代・江戸藩邸の維持費・手伝い普請などの負担により江戸中期以降は殆どの藩が多大な負債を抱えていた。
ハ)各藩では財政改革を試みるが成功した藩は殆ど無い。その中で備中松山藩・山田方谷が藩政改革という見地から財政改革を行い、驚くべき成果を出したことは大いに評価できる。藩財政改革と言えば米沢藩・上杉鷹山が有名であるが、備中松山藩・山田方谷はそれを上回る成果を出していると言ってよい。その違いは何なのか。
★いつもながら、上野さんが話題にされるのは、派手な歴史を語る上では、なかなかスポットライトが当たらない人物ばかりです。したがって、その重要性を語るにおいては相当な発表テクニックが必要であることも事実です。上野さんは毎回その辺りをわかりやすく、嚙み砕いて説明をしていただけるので、今回も楽しみにしております。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
11月例会は11月7日(火)開催
令和5年11月7日(火)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)大岩 泰さん 演題「我が国の医療史」~医療史から我が国の歴史を眺める~
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)日本には中国医学が主に百済経由で伝わり、律令時代に朝廷や高級貴族のための医療制度が生まれた。武家政権が医療制度を持ったのは江戸時代の元禄期以後である。律令による医師登用試験制度は、平安中期には医業の“家業化”に伴って有名無実化し、長い間医師の“資格”という考え方はなく、明治時代になって医師官業試験の開始以後、資格が復活した。
ロ)江戸時代は印刷文化が花開き、それが学問力を高め、多くの娯楽文化をも生んだ。医学の分野でも多くの医書が刊行され、加えて蘭医学の流入に刺激されて多くの有名医を輩出した。
ハ)蘭学は医学で始まり、理化学・兵学などに分野を拡げていった。江戸後期には各地に蘭学塾が生まれ、多くの藩医の子弟などが藩主の許可を得て有名塾に“遊学”した。開港に伴う疫病の流行や戊辰戦争・上野戦争の負傷者治療のため“病院ラッシュ”となった横浜の明治初期の様子を見ておきたい。
★現在、寿命は飛躍的にのびましたが、これまで人々は古より病に立ち向かい様々な対応をしてきました。大岩さんによる我が国の医療の歩み、是非聞きたいものです。
(2)竹内秀一さん 演題「古代山陰道について ―最近の島根県の発掘を踏まえて―」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
イ)古代直線官道についての発表は3回目になります。2018年に飛鳥、奈良時代に律令国家が全国に張り巡らせた古代直線官道の概要と三浦半島走水から東京湾を渡って房総半島に至る古代東海道が藤沢市内に残した痕跡について、また2022年には御殿場付近で古代東海道本道から分岐し甲府に向かう東海道支路甲斐路について発表させていただきました。
ロ)今回は場所を西に移して古代山陰道について発表します。今ではあまり人の立ち入らない島根の山中に1300年前の大規模な土木工事による巨大な道路が眠っているなんて、皆さんわくわくドキドキしませんか。近年の発掘調査を踏まえ、飛鳥、奈良時代に当時の律令国家が力強く全国に張り巡らせた古代官道の痕跡を山陰に訪ねます。
★古代の直線道をみると、ぞくぞくしてしまうという竹内さんの発表です。その熱い鼓動をそのまま古道探索に注入され、全国各地を巡っておられます。今回の山陰道の話も非常に楽しみですね。
(3)加藤導男さん 演題「その後の北条氏」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
イ)昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の最終回、北条義時の臨終間際の場面が思い出されます。姉政子が「頼家の死に関係していたの?」と聞いていました……。
ロ)鎌倉幕府将軍は初代将軍・源頼朝の後は、頼家・実朝の源氏三代で終わり、その後は京からの傀儡将軍(親王将軍)をたて、北条氏が執権として実権を握った。
ハ)義時の後の3代執権・北条泰時は有能であったとするが、やはり、源氏を抹殺する体制は変わらず、建長寺創建の5代執権時頼も、円覚寺創建の8代執権時宗もその実像は色々取沙汰されている。
★毎度のことながら、加藤さんの鎌倉時代の話は非常におもしろいです。確かに『鎌倉殿の13人』以後、あの北条家の人々はどう活躍したのか?知りたいところですね、どんなエピソードがとび出すのか楽しみです。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
10月例会は10月2日(月)開催
令和5年10月2日(月)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)森 彩子さん 演題「蘇る幕末 ーレンズがとらえた日本-」
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)幕末とは、一般的にペリーが来航した1853年から、元号が明治となった1868年までの約15年間を指す。日本が世界に門戸を開いた19世紀半ばは、欧米列強によるアジア進出が進められていた時期である。同時に、ヨーロッパでは写真技術の普及期に当たっていた。
ロ)日本の世界デビューの様子は外国人写真家によって記録された。そして、横浜は彼らの活動拠点となった。カメラがヨーロッパで発明され、日本に伝わってきた時期と、日本の幕末・明治という激動の時代が偶然重なった。それによって、時代の人物、事件、戦争、風景、町並み、風俗、建築、などが様々な視点から記録され、眼で見る歴史を今に伝えている。
ハ)前回は、絵図・浮世絵を通して見た横浜開港だったが、今回は「幕末、カメラはどのような日本を写し出したのか」その一端を紹介したい。その中でも、写真家フェリーチェ・ベアトの作品に焦点を当てて伝えたい。
★浮世絵もそうですが、写真は様々な情報を伝えてくれます。そのためには解説を聞きながら観ることが大切です。百聞は一見にしかずです。幕末の日本!楽しみですね。
(2)加藤英雄さん 演題「DNAが語る日本人の祖先あなたは縄文人/弥生人/古墳人/それとも?」(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
イ)自然災害や気候変動だけでなく、前世紀の遺物とさえ思われていた侵略戦争までもが身近に起き不安さへ覚える程激動する時代となった今、数万年におよぶ苦難の旅を経てこの日本列島に到達し、日本という国の礎(いしずえ)を築いた祖先の悠久の旅路に思いを馳せるとともに、1万2千年もの間世界史上稀(まれ)な戦争のない平和な社会と、世界四大文明に比肩(ひけん)する程の豊かな文化遺産を築いた縄文時代、渡来人と融合して新たな発展を遂げた弥生時代・古墳時代の先人達の遺(のこ)した誇るべき遺産、現代に生きる私たちが心身ともに祖先から受け継いだDNAを通して、改めて日本という国や日本人のありようを考える良い機会と思い本稿を企画した。
ロ)また、日本の古代史は一時的なブームでなく、2021年7月に北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録されたことから分かるように世界的に誇れる文化遺産と評価されて然(しか)るべきと強く思う。そしてそのDNAが私たちの体内に息づいていることも。
★縄文以前から受け継がれてきている日本人のDNAとは何なのか?そこから言える日本人、国家とは。とても深く大きなテーマに耳を傾けましょう。
(3)高田 茂さん 演題「勝海舟」(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
イ)過日、ある見学会で大田区の洗足公園を訪れた。その際、近くの「勝海舟記念館」へ立ち寄った。入口で、勝海舟の等身大の写真パネルが入場者を迎えていたが、身長が157㎝と私と全く同じ。こんな小柄な身体でよくも幕末を乗り切ったものだと感心し、興味が一気にわいてきた。
ロ)勝海舟の事績としては、咸臨丸での米国渡航往来や、幕末時の江戸無血開城での活躍等は耳にしていたが、果たして海舟はどんな人物であったかを、この機会に考えてみた。
ハ)これまで幕末に関しては、国内要因から記述されることが多かったが、この時代欧米の先進国によるアジアの未開国への侵略が激しい時代でもあり、海外との関係及び海舟の身辺に存した徳川慶喜や西郷隆盛、更には山岡鉄舟の存在も海舟の行動に与えた影響もかなりあったと思われる。これらを踏まえ考えてみたい。
★ 幕臣ながら明治新政府でも要職に就いていた勝海舟。勝海舟については様々語られていますが、発表の高田さん視点の人物像にご注目して下さい。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
9月例会は9月3日(日)開催
令和5年9月3日(日)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)大岩 泰さん 演題「我が国の医療史」~医療史から我が国の歴史を眺める~
(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)日本には中国医学が主に百済経由で伝わり、律令時代に朝廷や高級貴族のための医療制度が生まれた。武家政権が医療制度を持ったのは江戸時代の元禄期以後である。律令による医師登用試験制度は、平安中期には医業の“家業化”に伴って有名無実化し、長い間医師の“資格”という考え方はなく、明治時代になって医師官業試験の開始以後、資格が復活した。
ロ)江戸時代は印刷文化が花開き、それが学問力を高め、多くの娯楽文化をも生んだ。医学の分野でも多くの医書が刊行され、加えて蘭医学の流入に刺激されて多くの有名医を輩出した。
ハ)蘭学は医学で始まり、理化学・兵学などに分野を拡げていった。江戸後期には各地に蘭学塾が生まれ、多くの藩医の子弟などが藩主の許可を得て有名塾に“遊学”した。開港に伴う疫病の流行や戊辰戦争・上野戦争の負傷者治療のため“病院ラッシュ”となった横浜の明治初期の様子を見ておきたい。
★現在、寿命は飛躍的にのびましたが、これまで人々は古より病に立ち向かい様々な対応をしてきました。大岩さんによる我が国の医療の歩み、是非聞きたいものです。
(2)下垣有加さん 演題「八難六奇の三浦義村」
(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
イ)昨年の大河ドラマで脚光を浴びた三浦義村。ドラマの中では主人公・北条義時の盟友でありながらも、すぐに裏切るくえない策士というキャラクター像で描かれていた。藤原定家の日記である『明月記』には「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書かれている。この記載から一般的に「不可解な人物」とみられがちだ。
ロ)頼朝が亡くなり頼家の代になると、父の義澄そして従兄の和田義盛が十三人の合議制のメンバーに選ばれる。1199年に梶原景時の失脚に関わった。翌年義澄が他界すると三浦氏の当主となる。その後、1205年の畠山重忠の乱でも重要な役割を果たし、1213年の和田合戦では義盛に味方すると誓いながらも義時のもとに馳せ参じた。
ハ)1219年実朝が公暁に暗殺されるとこれを討ち取った。1221年承久の乱では弟の胤義が宮方にはしるも義村は鎌倉方として残り、戦後処理にも大きく貢献した。義時が亡くなると、伊賀氏騒動がおこるがこの時北条政子が一番に牽制したのはほかでもない義村だった。かように大きな権勢を奮った義村は、本当に裏切り者だったのだろうか。
★頼朝の没後、有力御家人の権勢争いは激化しますが、その中で中心的役割を果たした三浦義村の評価は?
下垣さんは今回初めてですが、豊富な知識と研究に基づく発表にご期待下さい。
(3)高尾隆さん 演題「医は仁術か 医者のホスピタリティとは?」
(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
イ)人の身体的痛みや苦しみを除き、その命を伸ばし幸せを与えるという医師が持つ崇高な思いはどのようにして醸成されるのか?日本赤十字社の使命には「私達は苦しんでいる人を救いたいという思いを結集し、いかなる状況下でも、人間のいのち健康、尊厳を守る」と書かれている。
ロ)人はこうした思いに目覚め医術の道を目指すのか?それとも医療を通して生まれる使命感から醸成されるのか?この医師や看護師の普遍的使命は西洋において古くから明文化されている。
ハ)我国で初めてこの赤十字精神を実践したのが高松凌雲と言われる。明治2年におきた函館戦争の時、市中に野戦病院を設け旧幕府軍、明治新政府軍の両軍の負傷兵を分けへだてなく手当てをした。凌雲は後に民間の救護団体「同愛会」を設立し、篤志家などの援助を受け多くの貧民への診療を行った。凌雲の人生を鑑みるとき、仁術とはなんなのか?医療について語るとき、私が出会った感銘深い一人の医師の存在がある。講話はこの一人の医師についてお話したい。
★患者の顔を見ないでPC画面のデータだけを説明する医者が多いように感じます。医療技術は日進月歩ですが、医は仁術の大切さを高尾さんの経験を通じて改めて認識したいと思います。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
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7月例会は7月5日(水)開催
令和5年7月5日(水)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)春口健二さん 演題「千葉常胤の活躍と九州千葉一族の動向」(午後1時10分~2時10分/質疑応答を含む)
イ)平安末期、桓武平氏の千葉一族は下総国の在庁官人であった。『吾妻鏡』には、源頼朝の決起に「感涙した」とする千葉常胤の伝承が記されるが、一方で所領の開拓は苦労ばかりであったという。
ロ)同時に常胤は、高齢にもかかわらず打倒平氏の一念を貫き、源氏方の与力として大活躍する。正妻は秩父一族である重弘の娘を娶り、嫡男胤正、相馬次郎師常らを生む。このように千葉氏は姻戚の秩父氏や三浦氏とも連携を深め、鎌倉武士の中心的氏族として繁栄していくのである。
ハ)後裔の千葉宗胤は異国警固番役として九州に赴き大隅国守護職を与えられ、その次男胤泰の子孫は九州千葉氏(肥前千葉氏)として存続し、鎌倉後期からは、奥州にもその痕跡を残していく。
★神社研究に長けた春口さんですが、今回は千葉一族について考察をされます。現地調査を踏まえた発表にご期待下さい。
(2)真野信治さん 演題「清和源氏を陽成源氏と呼んではいけない~ある不正事件から見える衝撃的な事実~」(午後2時20分~3時20分/質疑応答も含む)
イ)明治の国史学者星野恒が発表した「清和源氏を陽成源氏と言い換えるべき」という論説をきっかけとして、「清和源氏陽成源氏論争」が勃発した。今日まで様々な研究者がこの問題について論述しているが、決定的な論拠をもとに結論が出るまでには至っていない。
ロ)その中で、一次史料から判断して、清和源氏という呼称のままでよい、という主張も根強い。すなわち、星野博士が論拠としているいわゆる「源頼信告文」の文面検討が進み、近年はこの史料の信憑性を問う論考も出始めている。ただし論争に決着がつくほどではない。
ハ)そこで、この論争に食い込むため「告文」の真贋を論ずるのではなく、同時代における平安中期律令国家の制度的側面よりアプローチをしてみる。するとその中で見えてきた一つの不正事件が、実はこの論争に重大な影響を及ぼしていることがわかる。今回は、この事件の詳細を検討するとともに、「清和源氏陽成源氏論争」の今後の方向性を明らかにしていく。
★とかく従来の定説を覆す説が発表されると、それは必要以上に注目されます。果たしてこの新説(陽成源氏説)の信憑性は如何に?ご期待ください。
(3)竹内章二さん 演題「ラムセス2世 ~古代エジプト 神になったファラオ~」(午後3時30分~4時30分/質疑応答も含む)
イ)古代エジプトの王としては、ギザのピラミッドで有名なクフ王、黄金のマスクなどまばゆい財宝に彩られたツタンカーメン、ローマのカエサルやアントニウスを魅了し王国を維持した絶世の美女クレオパトラなどが知られている。だが、さらにとてつもなく傑出したファラオがいたのだ。
ロ)それは新王国時代第19王朝のラムセス2世である。紀元前13世紀という時代に、90歳以上の長寿で67年にも及ぶ長期統治を実現。手がけた巨大神殿などの建造物も他の王に比べ圧倒的に多く、さらには8人の王妃、百人余の側室、百数十人の子供という精力絶倫ぶり。また、シリア、リビア、ヌビアなどへも外征し、ヒッタイトとの戦いでは、世界最古の平和条約を結ぶなど、その治世の下、エジプトは栄えに栄えたという。
ハ)かつて現地を旅した時の、神殿などの遺跡・遺物の写真や図版をまじえ、その時代の文化・社会の中で、彼がどのような為政者であったのかを考察する。
★日本の古代史に精通した竹内さんが、今回はエジプトの古代史及びファラオの実態に迫ります。楽しみですね。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
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6月例会は6月3日(土)開催
令和5年6月3日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)長田格さん・・・演題「南朝石刻 中国南京市とその周辺のみに残る南朝時代の石造」(午後1時10分〜2時10分/質疑応答を含む)
イ)中国の南朝時代は、420~589年、宋・斉・梁・陳という4つの国が首都を建康(現在の南京)におき、文化が花開き、繁栄した時代である。その時代の皇帝・親族の陵墓の前衛としての石像が、南京とその周辺にのみ、多数残っている。
ロ)この前後の時代にも陵墓の前衛は存在するが、南朝石刻はその大きさ・迫力が全く異なる。
ハ)写真は、梁武帝(蕭衍)の従弟・石刻であり、南京の中心から近いところにある。 「蕭景墓石刻」(発表者撮影)
発表者は、南京に暮らし始めて早々にこれらと出会い、感動し、以後、すべての石刻はもちろん、南京のほとんどの遺跡を見て回るようになった。感動の一端をお伝えしたい。 ★この時代を描いた中国の歴史ドラマも意外と人気がありますね。感動の共有が出来ればと思います。
(2)長尾正和さん・・・演題「大航海時代と信長・秀吉・家康」(午後2時20分〜3時2 0分/質疑応答も含む)
ア)わが国は古来より一貫して海外文化・文明の多くを取り入れつつ、自国独自の文化・文明を発展させてきた。古代から中世における中国文明、仏教文化、そして黒船を契機とする西洋産業革命後の文明等々がその最たるものである。
イ)15世紀末から16世紀前半に始まった「大航海時代」によって西欧の国がアメリカ大陸およびアジア大陸に初めて進出、世界がつながる。わが国もその影響を大きく受けた。これにより軍事面で大きな変化が起きる。
ウ)ちょうどこの時代に現れたのが織田信長、豊臣秀吉、および徳川家康の、いわゆる3英傑である。西欧人がもたらしたものは、わが国における、天下統一へと向かう要因となった。かれらはこれをどのように消化しながら、それを実現したか、その軌跡を見ることとする。
★長尾さんは毎回独自の視点から興味深い発表をされています。三英傑が西洋文化を利用しながら天下統一へ向かった経緯、軍事面での大きな変化とは?いかなる切り口で迫るのか、非常に楽しみですね。
(3)宮下元さん・・・演題「正倉院のなぜ?…聖武遺愛品は150点のみ」(午後3時30分〜4時30分/質疑応答も含む)ア)6年間奈良の正倉院展に行っている。聖武天皇の即位が西暦724年で、来年で1300年になる。1300年前の正倉院の素晴らしい宝物を見続けていると、なぜ?との疑問が湧いて来る。国宝がない!薬や武器がなんであるの?本当に聖武天皇のゆかり品なの?等 金銀鈿荘唐大刀(部分)宮内庁HPより
陰陽宝剣はもっと荘厳であったと想像される
イ)756年に献納された聖武遺愛品は750点である。しかし、現存はたった1/5の150点のみしかない。厳重な管理だったはずなのに何故だろうか?それは、日本もやはり世俗社会だったからだ。歴代の最高権力者を初め、皆が日本最高級の宝物を欲しがったからと思われる。
ウ)正倉院の由来は、光明皇太后が聖武天皇を偲ぶ『哀悼説』といわれている。あるいは、聖武天皇本人が仏になりたかった『崇仏心説』もある。しかし、新説がある。それは、『藤原仲麻呂による陰謀説』である。仲麻呂はどうやって、血を流さないクーデターで権力を握ったのだろうか。
★誰でも知っているつもりの正倉院。今回は定説と言われていた事に対する疑問、および知られていない実像に迫りながら、様々な正倉院の顔を紹介してくれますよ。お楽しみに。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
5月例会は5月6日(土)開催
令和5年5月6日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)遠田千代吉さん・・・演題「夏見廃寺」(午後1時10分〜2時10分/質疑応答を含む)
イ)斎王を退下した後の、大伯皇女の後半生(15年間)の動静は、正史上の記録がなく、わかりません。ただ 大宝元年(701)12月薨去の記録が『続日本紀』にある だけです。
ロ)このなかで、唯一『薬師寺縁起』に、「大伯皇女が 伊賀国名張に昌福寺(夏見廃寺)を建立した」との記文が残されました。
ハ)これを踏まえ、名張市の夏見廃寺は、何時(いつ)• 誰が建立したのか、論議がまき起こりました。今回は「伊賀国の古代寺院としての夏見廃寺」に光を当て、その姿に迫りたいと思います。★発掘調査などから大和の中央勢力との結びつきがあるとし て国の史跡に指定された夏見廃寺、面白いですよ。
(2)瀬谷俊二郎さん・・・演題「大日本帝国の崩壊(Parti)」(午後2時20分〜3時2 0分/質疑応答も含む)
イ)1936年筆者が生まれたとき日本は中国と戦争の状態 (1931年の満州事変以来)にあったが、1941年には第2次世界大戦の一環ともなる太平洋戦争(対米•英•蘭戦)にも踏み切り更なる緊張に日々が続くことになった。
ロ)筆者は国民学校(小学校)入学後1944年に集団(学童)疎開をさせられたがその後両親が疎開していた兵庫県の住吉に再疎開し、そこで空襲に会い被災した。一命はとりとめたがその後の生活も3 K(空襲•飢餓•欠乏)に苦しんだ挙句 に終戦を迎えた。
/\)戦後8 0年近くたって戦争の記憶•記録共に薄まってきているが、その現実の体験者として戦争の悲惨さ•バカバカしさを次の世代に語り伝えたいと考えたのがプレゼンを引き受けた次第である。★歴史的視点で見れば太平洋戦争も最近のことです。改めて瀬谷さんの体験に基づく発表に耳を傾けたいと思います。
(3)古谷多聞さん・・・演題「インパール作戦(昭和19年3月〜7月)」(午後3時30分〜4時30分/質疑応答も含む)
イ)太平洋戦争末期北西ビルマ(現ミャンマー)におけるインパール作戦は当時現地牟田口廉也軍司令官の独断主義による無謀強硬な作戦計画実行、そして彼個人的な野望と特異な性格(作戦中隸下三師団長を独断で解任する愚行等)が複合し、英軍に惨敗。
ロ)しかも敗戦退却時には多くの犠牲者を出す悲惨な「白骨街道」の現出で「史上最悪の作戦」と非難され、その敗戦の元凶を牟田口一人に帰しているのが通説である。
/\)この通説に対し「作戦発動までの底辺には旧日本陸軍固有否日本人特有の体質•精神構造が潜在しており敗戦の責を牟田口一人に極めつけるのは酷である」と私は思料し、今回は「作戦構想の原案発動までの経緯及び旧陸軍の体質を明らかにする事」で牟田口の独断発意の通説にメスを入れ、旧陸軍の悪しき体質を述べるのを主眼とし、本作戦の核心である「敗戦の因•白骨化移動•責任の所在」等については次回続編に持ち越しといたしたい。
★戦史研究において、必ず取り上げられるインパール作戦。失敗の本質は何か? 陸海軍研究家の古谷さんがその真相に迫ります。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
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JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
4月例会は4月8日(土)開催
令和5年4月8日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)武田収功さん・・・演題「飛鳥の風土がもたらしたものー飛鳥の呪術と幻覚性植物-」(午後1時10分~2時10分)
イ)「飛ぶ鳥」のアスカと万葉集に歌われた飛鳥は、いまも古代と変わらぬ自然や歴史が風土の中に息づいている。大和の小盆地が、ヤマト王権から続く飛鳥京としてどのような経緯で都になったのか。飛鳥には他とは違う隠された特別な何かがあったのだろうか。
ロ)5世紀以降に渡来した氏族集団は蘇我氏らと緊密な関係を結び、政治・経済・軍事・土木・文化面で活躍した。彼らは日本に道教的信仰を伝え、飛鳥の成り立ちをはじめ日本の地政学や古代文化形成に大きく寄与した、
ハ)飛鳥のマツリゴト(催事・政事)に内在する道教の神仙思想と仙薬(水銀、幻覚性を持つ本草など)や呪術の複合的な存在が、飛鳥の地勢に都が置かれた条件の一つであり、それは飛鳥の「風土」によって形づくられた。
★飛鳥という響きには古代のロマンが感じられますがさらに神秘性を秘めた今回のテーマ、古代ファンでなくても興味津々です。
(2)長谷川憲司さん 演題・・「細菌学・公衆衛生学の先駆者「北里柴三郎」の信念」(午後2時20分~3時20分)
イ)北里柴三郎は明治期から昭和の初めまで細菌学や公衆衛生学に挑戦し、世界で活躍し、いまでも「日本近代医学の父」と呼ばれてい
る。
ロ)彼は若い頃に志した医学への夢を生涯貫いてきた「信念の人」であり、ドイツのコッホ研究所留学から「破傷風菌の純粋培養「血清療法の確立」「ペスト菌の発見」など多くの世界的業績を挙げてきた。帰国後は国内に初めての「伝染病研究所」「結核の治療施設」を建設し、さらに独自の力で「北里研究所」「北里大学」「慶応大学医学部・大学病院」の礎を築いた。
ハ)学問以外でも人望も厚く、多くの優秀な細菌学研究者と多くの臨床医学者を育て、そして多くの感染症患者を救ってきた。これはひとえに彼が貫いた信念「日本人の命を支える杖でありたい」と願った偉大な明治人の心であったと確信する。
★世界に誇る偉人。北里柴三郎の発表です。医学博士でもある長谷川さんの発表にご期待してください。
(3)佐藤猛夫さん・・・演題「私の歩いた五街道(日光・奥州街道)」(午後3時30分~4時30分)
イ)徳川幕府直轄で宿駅の整備拡充や街道の維持管理が行われた五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)のうち、日光街道と奥州街道は、日本橋から宇都宮まで同じ道をたどる。関東平野の真中を南から北へ向かうこの道は現在では車も多く、そのうえ都市近郊のどこでも見られるごく普通の風景が続き、いささかうんざりする。
ロ)宇都宮から二手に分かれてようやく往時の面影を残す風景に出会い元気が出てきた。延々と杉並木、芭蕉が訪れた歌枕、能因法師が詠んだ白河の関などを実際に目で見、肌で感じることは街道歩きの楽しみで、疲れも吹き飛ぶことこの上ない。
ハ)延べ11日をかけて歩いた224km(日本橋~宇都宮105km、宇都宮~日光86km)で見聞きしたことを中心にお話したいと思います。
★五街道すべてを踏破した佐藤さんの体験に基づく発表です。楽しみです。
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2月例会は2月2日(木)開催
令和5年2月2日(木)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)山下美智子さん・・・演題「ようこそ江戸吉原へ」(午後1時10分~2時10分)
今年最初の発表は吉原遊郭の歴史と文化を学ぶことから始まります。
〇吉原の成り立ち
〇当時の様子「主に新吉原について」
〇吉原ってどんなところ?
〇さあ、吉原へ行ってみよう!
「わくわく💛新吉原へのルート」
〇吉原のミシュランガイド「あなたのお財布は大丈夫?」〇お大尽になって太夫と遊んでみよう!〇知っているようで知らない花魁道中〇大店から小店 遊女たちの24時間 〇吉原の光と影 〇岡場所って何?その他の遊び場 〇吉原の品格の衰退とダンピング
【画像は吉 原 の 街 並 み】
(2)丸山雅子さん 演題・・近代日本の先駆者 小栗上野介忠順(午後2時20分~3時20分)
イ)日本の近代化は薩長を中心とした明治政府によって突如として始まり、幕臣は時代遅れの無能な集団だったとお思いの方が多いのではないでしょうか?
ロ)しかし、幕臣には国際感覚に優れた有能な人物がおり、近代化は幕末より始まったのである。その中の一人、小栗上野介は日米修好通商条約批准のため目付としてアメリカに渡る。そこで見た先進技術にふれ、日本の近代化の必要性を悟る。帰国後、建設した横須賀製鉄所は近代工業の礎となった。そのほか改革や構想は多岐にわたる。「レンズが撮得た幕末の日本」より
ハ)しかし、残念ながら小栗の功績は殆ど評価されていない。小栗を逆賊とした明治政府の学校教育がいまだに尾を引いていると思われる。そこで今一度小栗の功績を見直してみたい。(発表者談)【画像はワシントン造船所での記念写真】
3)大瀬克博さん・・・演題「ドイツ国歌の歴史」(午後3時30分~4時30分)
イ)ドイツは843年の東フランク王国の成立が国の始まりである。神聖ローマ帝国を経て1815年にプロイセン王国、オーストリア帝国など39ケ国によるドイ連邦の成立、そしてドイツ最初の統一国家として1871年にドイツ帝国が成立した。
ロ)ドイツ国歌は1841年にハイドン作曲のメロディにファラースレーベンが詞を付けて歌われたのが始まりである。ドイツ帝国の成立まで分裂と統一を繰り返したドイツ、その領邦統一を願い歌の1節には「すべての上にドイツを築こう」と謳っている。それをナチスドイツが「世界に冠たるドイツ」と歪曲した。
ハ)第2次大戦が終わり連合軍はこの歌を禁止する。しかしドイツ人の歌に対する思いは強く1952年から歌うようになり1991年に正式に国歌となった。
分断の歴史を重ねたドイツ国民は歌詞にある「統一、正義、自由」を願って歌う。
【画像は ベルリンドイツ連邦議会議事堂】
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
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みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
12月例会は12月15日(木)開催
令和4年12月15日(木)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)高田 茂さん 演題・・・『倭の五王と五世紀の倭国』(午後1時10分~2時10分)
イ)五世紀の“倭の五王”の時代、その中で最後の王である武、即ち雄略天皇の時代は画期的と思われているが果たしてそうであったろうか。
ロ)”倭の五王”の資料を基にこの五世紀の時代というものを少しでも身近に感じられように検討してみたい。
ハ)それには『宋書』が基本資料となるが、それ以外にも考古学的見地か らの研究も必要となろう。果たしてこの時代の実相はいかなるものであったのか。【宋書「倭国伝」】
(2)槙 良生さん 演題・・・『タイタニック号の真実』(午後2時20分~3時20分)
イ)1912年4月14日午後11時40分、イギリスの超豪華客船タイタニック号はアメリカ・ニューヨークに向かう処女航海中に北大西洋上で氷山に衝突し、そのわずか2時間40分後に沈没した。2200名を超える乗員乗客を乗せていたが、その7割にあたる約1500名が犠牲となったのであった。
【ウイキペディアから】
ロ)この大惨事は世界中に広く知られており、沈没事故の後、度々映画化されることになるが、最近では沈没するタイタニック(ウイリー・ストーワ) 1997年、ジェームズ・キャメロン監督、主演レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウインスレットよる映画『タイタニック』が記憶に新しいであろう。
ハ)この事故から百年を経て興味を持ったのは、イギリスのジャーナリスト、セナン・モロニー氏が沈没の原因について石炭火災という新説を発表したことである。石炭火災については当時の事故調査査問委員会で取り上げられたものの、沈没事故とは無関係とされたのであった。
今回はこの沈没事故を今一度検証して、いったい何が原因で、人々はどのように行動し、そして後世に何をもたらしたのかを明らかにしてみたいと思う。(発表者談)
(3)木村 髙久さん 演題・・・『縄文人の心を探る』(午後3時30分~4時30分)
【縄文中期の深鉢形土器】
イ)日本文化の基礎を築いたといわれる縄文人のくらしや文化などについては少しずつ明らかになってきている。しかし、「縄文人の心」については必ずしも明確ではない。そこで今回挑戦してみるものである。
ロ)縄文人の子孫が現存してはいないし、文献もない。よって遺跡遺物、などから推理することになる。具体的には墓、土偶、土器、民俗学などを調査し縄文人の心にたどり着くことを試みるものである。
ハ)ところで、縄文時代は一万年以上続いたので、縄文人の心は一様ではない。時期や場所により変わることが多い。また、縄文人の心は一つだけの心ではなく多重的であると考えられる。
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
11月例会は11月5日(土)開催
令和4年11月5日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)西澤 昭さん 演題・・・『神奈川県道40号線(通称厚木街道)の歴史』 (午後1時10分~2時10分)
イ) 横浜市旭区鶴ヶ峰から厚木市まで続く厚木街道は、その 名が歌川広重の東海道細見図会に書かれている。大正時代 初めに、府県道の制定によりその道筋が決定されたが、 江戸時代とは異なる道筋であった。
ロ) そして、大正時代から現在まで、その道筋は大きく 変化している。その道筋の変化を当時の社会情勢と照らし 合わせてみると、時代要求にあった道筋変化が認められる。
ハ) 公文書館に残されている資料を基に、他地区の事例も 併せて見ることで、時代の変化を追ってみた。(発表者談) ≪画像は、旭区内の街道標識(発表者撮影)》
(2)真野 信治さん 演題・・・『 桶狭間の戦いの真相~今川をなめてはいけない! 織田を過大評価してはいけない!』 (午後2時20分~3時20分)
イ)桶狭間の合戦とは、織田信長が今川義元を少 ない軍勢で打ち取ったという有名な戦いである。
ロ) 通説では、それは迂回して奇襲によるものと 言われてきたが、近年には『信長公記』の記述 を重要視し、正面攻撃であったとの説が重きを なしてきたようである。
ハ)ただ、従来より信長の勝ちっぷりが鮮やか であるため、今川軍の稚拙さが当然である が如くに扱っている。今回はそれ程油断し ていた訳ではない今川軍の動向を中心に 真相に迫ってみる。(発表者談) 《画像は、桶狭間古戦場公園の像》
(3)加藤 導男さん 演題・・・『源氏と平家の誕生と源平合戦』 (午後3時30分~4時30分)
イ) 源氏と平家の誕生はいつだったのか?源氏は平安時代の初 期の第52代嵯峨天皇の代に突然臣籍降下されたのである。
ロ) 源氏については、その後併せて21代の天皇の際に臣籍降下 され各地に住み着いていった。一方、平家は第50代桓武天 皇の代に平氏として四代の天皇が臣籍降下させた。
ハ) 源平合戦の結果は、鎌倉幕府の開府の基とされるが、平安 時代末期からその争いは始まった。それらの主役は誰なの か等について発表したい。(発表者談) 《画像は、嵯峨天皇像(ウィキペディアより)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
10月例会は10月6日(木)開催
令和4年10月6日(木)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からとさせて頂きますのでご協力をお願いします。
(1)森 彩子さん 演題・・・『絵図・浮世絵に見る横浜開港』 (午後13時10分~14時10分)
イ) 日本の開国は、①嘉永七年(1854)「日米和親条約」の 調印、②安政五年(1958)「日米修好通商条約」と蘭露 英仏との調印の二段構えで行われ、横浜が開港された のは今から163年前の安政六年(1859)6月2日である。
ロ) それまで、東海道の道筋から外れた小さな寒村に過ぎな かった横浜は、貿易の開始と同時に多くの外国人が移 り住み、各国の商館やホテルが建ち並ぶ国際都市とな り日本近代化の窓口となった。
ハ) 今回の発表は、開港場を中心とした横浜という町が どのようにして形作られて行ったのかに焦点を当て、 絵図や浮世絵を見ながら辿ってみたい。(発表者談) 《画像は「野毛村切通シヨリ」神奈川県博図録より》
(2) 長田 格さん 演題・・・『「おくのほそ道」を歩く』 (午後14時20分~15時20分)
イ) 俳聖・松尾芭蕉は、元禄二年(1689)46歳の時、約五 ヶ月を掛けて江戸深川から仙台を経て、平泉そして 日本海側へ出て新潟、金沢、福井を経て大垣まで、 約二千キロの旅をした。
ロ) その旅の内容は、同行者である曾良の記録により詳 細に分かっている。私は、2020年から今年8月まで、 毎年約一ヶ月、都合三ヶ月を掛けて「おくのほそ道 」を歩いてきた。
ハ) 国道・県道ばかりと思えば古道も多く残り、本格的 登山もあれば船旅もある。今回の発表はそのバラエ ティに富んだ旅の全貌と共に、古道を中心とした話 をしたい。(発表者談) 《画像は、福島県鏡石町の芭蕉・曾良の像(発表者撮影)》
(3) 中村 康男さん 演題・・『幕末維新期、時代を動かした人材~山内容堂にみる~』 (午後15時30分~16時30分)
ペリー来航から明治新政府による近代化の シンボルの一つである日本初の鉄道開通ま での激動期を土佐藩と山内容堂の動向を参 考にして、この時代の人材に触れます。 《画像は、三代歌川広重「横浜海岸鉄道蒸気 車図」
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
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*11月の例会は11月5日(土)関内小ホールで開催予定
9月例会は9月17日(土)開催
令和4年9月17日(土)13時より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 13時
開場時間は資料整理の都合上12時15分からと させて頂きますのでご協力をお願いします。
(1) 宮下 元さん 演題・・・『ホモ・サピエンスは噂話で進化した』 (午後1時10分~2時10分) 前回の発表では、文字の発明以降の5,000年のお話をしましたが、今回はそれ以前で 有史以前の音声コトバの話をします。ホモ・サピエンスの特徴は類まれなコミュニケ ーション能力にあると言われています。私は「噂話」によってその能力が培われたと 思っています。なぜなら、「噂話」は目の前にはない時間・空間そして第三者の話で あり、想像力を大きく働かせる必要があるからです。(発表者談)
(2) 竹内 秀一さん 演題・・・『古代東海道甲州路について~河口湖畔「鯉ノ水遺跡」』 (午後2時20分~3時20分) 4年前は神奈川県の古代直線官道について発表しましたが、今回は東海道から分かれ て甲斐国府に向かう支路の甲斐路を取り上げます。2013年に河口湖畔で、その東海道 甲斐路の直線官道の遺構(鯉ノ水遺跡)が見つかりました。江戸時代の街道であれば細くて 曲がりくねっていたが、古代の官道は可能な限り直線的で大規模であった。山岳地帯を 超えて本当に古代の官道があったのだろうか?(発表者談)
(3)高尾 隆さん 演題・・・『街歩きで出会った古刹とつながる数奇な糸~濟松寺』 (午後3時30分~4時30分) 友人知人から「私の家は〇〇の末裔」という話を聞かれたことはありませんか?東京 の町は江戸の町と言われるくらい、その足跡が今も残っています。私がある時、街歩きで 訪ねた濟松寺に纏わる話は、関ヶ原で敗れた石田三成に繋がり、そして徳川家光から公家 さらには皇族へとつながっていく驚きの血縁関係がありました。この事実を、権現様は ご存知でしたか?どうする家康。(発表者談)
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
*10月の例会は10月6日(木)関内小ホールで開催予定
8月例会は8月3日(水)開催
令和4年8月3日(水)12時50分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
開場 12時15分~ 開会 12時50分
開場時間は資料整理の都合上12時15分からと させて頂きますのでご協力をお願いします。また開会時間は7月と8月に限って40周年行事のご案内をさせて頂く都合から、いつもより10分早い12時50分とさせて頂きます。
(1)古谷 多聞さん 演題・・・『ノモンハン事件/後編・・停戦後の秘話』 (午後1時10分~2時10分)
イ) 前回の発表では、ノモンハン事件勃発後の当 事国である日本、旧ソ連、そしてモンゴルの 国内情勢や事件勃発の要因等について説明した。
ロ) 今回の発表は、停戦後のあまり知られていない事実、具体的には、 ①事件の通説は「日本軍の惨敗」とされている が、冷戦後の情報公開により疑問視されるよう になったこと、 ②停戦後の「上に甘く、下に厳酷」な日本陸軍 の粛清、懲罰人事のこと、 ③停戦後の将校・兵士の帰還捕虜の取り扱いの こと、などを中心に述べてみたい。(発表者談) ≪画像は、ノモンハン事件の日本兵(ウィキペディアより)》
(2)忌部 守さん 演題・・・『 藤原鎌足=東国出自論~もうひとつの古代史逸文~』 (午後2時20分~3時20分)
イ) 藤原氏の氏神とされる奈良の春日大社の主祭神は 中臣氏の祖先神であるアメノコヤネ(天児屋根)では なく、なぜか東国の鹿島神宮の祭神・タケミカヅ チ(武甕槌)を祀る。
ロ) 長く日本の政治権力を掌握してきた藤原氏は、本 当に祭祀一族である中臣氏の出身だろうか?祖先神を大事にしない氏族など有り得ない。
ハ) 平安時代の歴史物語である『大鏡』は、藤原鎌足 を東国の常陸国の生まれであると記述する他、 始祖鎌足を東国出身とする伝承は少なくない。本当の 出身氏族や出身地を特定することは可能だろうか? そして発表者が東国鹿嶋で見たものとは?(発表者談) 《画像は、蝦夷地に向かって北面する鹿島神宮 (発表者撮影) 》
当日受付で、ご希望の方に『もうひとつの古代史』本の余部をプレゼント!!
(3)真野 信治さん 演題・・・『どうする頼朝!~一か八かの挙兵だった~』 (午後3時30分~4時30分)
イ)大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の前半で描かれた頼朝の挙兵。8月17日に山木判官兼隆を討って 以降、10月6日には数万騎を率いて鎌倉入り。
ロ) 通常ではありえない短期的スパンで南関東を統一、関東武士を従えた頼朝であったが、その背景には何があったのか?有力武士の思惑とは?
ハ)一方で、鎌倉幕府成立の陰には何人もの東国武 士が粛清されている。殺された者と生かされた者の間にはどの様な違いがあったのか? 5月の歴史散歩の時の説明の延長上の内容を含みな がら、改めて頼朝と関東武士を俯瞰します。(発表者談) 《画像は、木造源頼朝坐像(甲斐善光寺蔵)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
*9月の例会は9月17日(土)関内小ホールで開催予定
7月例会は7月2日(土)開催
令和4年7月2日(土)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
発表者 遠田 千代吉さん 演題 『二上山に偲ぶ 烏谷口古墳』 (午後1時10分~2時10分)
イ) 昭和58年5月、二上山の東南に延びる支脈裾で一つの 古墳が発見された、烏谷口古墳である。発見されるま で土砂に埋もれ、雑木の茂る景観の中で永い眠りにつ いていた。直ちに調査が開始され、その調査結果から 大津皇子の墓であることが有力視されている。
ロ) 埋葬施設として横口式石槨の形状をとり、石槨に家形 石棺の蓋の未製品が「急ごしらえ」で転用されている ことに特色がある。また、石槨の大きさからも改葬が 行われたと推定され、大津皇子の墓の可能性が高い。
ハ) これを踏まえ今回は誰が「二上山のふもと、当麻のこ の地」を大津皇子の墓の移葬先とすることに関与したのかについ ても言及したい。(発表者談) ≪画像は、烏谷口古墳(発表者撮影)》
発表者 植木 静山さん 演題 『 南北朝における天皇拉致事件の真相』(午後2時20分~3時20分)
イ)室町時代の初期の時代を南北朝時代と呼ぶが、この時代 は混乱の時代であり、当時の人達は「一天の下に両帝あ り、南北に都あり」と困惑しながら表現している。
ロ) 北朝は京都にあり、崇光天皇は足利尊氏を征夷大将軍に じて京都に幕府を開かせて政治を一任した。一方、南朝 方は後醍醐天皇に引き続いて吉野を本拠地として、後継 者として後村上天皇が皇位につき北朝に対抗していた。
ハ)そして、足利政権の中にも尊氏の弟足利直義と執事 の高師直との対立が起こる。武力では劣る南朝だが 北朝の混乱に乗じて南朝の大納言北畠顕房を中心に 策を廻らし、北朝の弱体化を狙って天皇の拉致誘拐を図る。その結末は?(発表者談) 《画像は、崇光天皇(北朝)像〈ウィキペディアより〉》
発表者 齋木 敏夫さん 演題 『寺院の始まり』(午後3時30分~4時30分)
イ) 538年に百済の聖明王から仏像や経典が贈られた時が仏教 公伝と云われるが、すぐには寺院建立とはならなかった。
ロ) 587年に蘇我氏と物部氏との戦い(丁未の変)が起こり、戦 勝すれば蘇我馬子は法興寺(飛鳥寺)を、聖徳太子は四天王 寺を建立することを誓い、それを実現させた。その後現存 する法隆寺(斑鳩寺)・法起寺・法輪寺・中宮寺・薬師寺、 現在の京都に広隆寺、長野には善光寺等が建立された。
ハ) 現存する寺々については仏像・建築様式を、現在は廃寺と なっている山田寺・大官大寺等については遺物について 遺物についてお話しします。(発表者談) 《画像は、法隆寺五重塔(発表者撮影)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
8月の例会は8月3日(水曜日)関内小ホールで開催する予定です。
6月例会は6月4日(土)開催
令和4年6月4日(土)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
佐藤 猛夫さん 演題・・・『清水の次郎長と明治維新』(午後1時10分~2時10分)
イ) 「次郎長ハ実名山本長五郎、駿河国有渡郡清水港ノ人ナリ」 とは、天田五郎著『東海遊侠伝〈一名次郎長物語〉』の冒頭 の文言です。次郎長は文化三年(1820)に生まれ、明治二十六 年(1893)波乱に満ちた生涯を閉じました。
ロ) その人生74年を三分割してみると、第1期(出生~23歳)は目 に余る悪童・青年時代、第2期(24~48歳)は無宿渡世人の時 代、そして第3期(49~74歳)は裏街道から足を洗い復帰した 時代ということが出来ます。
ハ) 第1~2期については、『東海遊侠伝記』を種本として語ら れており、何処までが真実か判りません。第3期は、明治維 新に始まりますが、これを機会にそれまでの人生と真逆の道 を歩むことになったのです。
(発表者談) ≪画像は、次郎長の銅像(発表者撮影)》
長尾 正和さん 演題・・・『 天皇陵とは』 (午後2時20分~3時20分)
イ)わが国の天皇代々の御墓は「陵(みささぎ)」と呼ば れる初代神武に始まり、第124代昭和天皇までの天 皇陵のほとんどは近畿地方にあり、形式は山陵、 古墳寺院内の石塔等々、様々である。
ロ) また、これらの陵の中には、わが国の歴史の途中 では所在地が不明となっていたのも多かった。現在 のような形に整備されたのは江戸時代末期から明治 にかけての時期である。
ハ)では、それぞれの陵は現在どのようになってい るのであろうか。天皇陵の分布、管理体制、歴 史の論点等をまとめてみることにした。
(発表者談) 《画像は、発表者撮影》
高尾 隆さん 演題・・・『ラストサムライと呼ばれた男達‐中島三郎助と土方歳三‐』
(午後3時30分~4時30分)
イ) 人を斬るために腕を磨くことを日常としたサムライ達。 しかし、武士の時代の終焉期にはどれほどその腕が役に立 ったのだろうか?子どもの頃、憧れて最強と思っていた サムライ達の戦いで‟剣“は必ずしも無敵ではなかった。
ロ) されど、その魅力とは何なのか?剣豪と呼ぶには腕もさる ことながら人としての生き方にも魅力がないといけない。 武士の時代の最後に登場する中島三郎助と土方歳三。この 二人のつながりとラストサムライと呼ばれる姿を時代背景 に沿って比べてみたい。
ハ) 人類はいつまでも愚かな戦争を続けている。この話しも 愛すべき人間が死ぬことが判っていながら突き進んでしまう。同じ時代に生きていれ ば、一度は会ってみたかったと思う私が好きな剣豪達の話しです。
(発表者談) 《画像は、中島三郎助と土方歳三(ウィキペディアより)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
5月例会は5月8日(日)開催
令和4年5月8日(日)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
春口 健二さん 演題・・・『三浦武士団と鎌倉幕府の成立』(午後1時10分~2時10分)
イ) 二つの弱小武士団が、鎌倉幕府の成立に大きく貢献しました。それが、三浦氏と千葉氏だったのです。今年は、三浦一族と三浦半島の関係について語ります。
ロ) 三浦氏は何故、栄えたのでしょうか?その答えが三浦半島にあります。伊豆半島は、三浦半島よりは大きいのですが、山や岩が多くを占め、船の寄港も困難でした。
ハ) 一方、三浦半島は砂地で湾内は平水、台地は20~30メートルで半農半漁に適しており、水田地は狭いものの谷戸奥に唐池を堀り、谷戸水や地下水を蓄えることが可能となりました。幕末に、ペリーが久里浜に上陸したのも、三浦半島の水が欲しかったと言われています。
槙 良生さん 演題・・・『 永遠の旅人 松浦武四郎』(午後2時20分~3時20分)
イ)今からおよそ150年前、明治2年(1869)5月五稜郭で戊辰戦争が終結し、7月には開拓使を設置、いよいよ蝦夷地開拓が始まった。
ロ) 開拓判官に任じられた伊勢松坂生まれの探検家・松浦武四郎は蝦夷を知り尽くしたエキスパートであったが、蝦夷を北に暮らすアイヌ人の大地という意味で「北加伊道」と命名したが、これが字を改めて「北海道」となったのをご存知だろうか?
ハ)今回は歴史的に着目されていない松浦武四郎に焦点を当て、蝦夷やアイヌに執着した理由や、幕末維新にどのような影響を与えたのか、彼の生涯を辿る事により、その真実の姿と彼のメッセージの今日的意義について考えてみたい。
(発表者談)
瀬谷俊二郎さん 演題・・・『膨張の70年 PART 2』(午後3時30分~4時30分)
イ) 世界が帝国主義の時代に、明治維新を成し遂げた薩長の新政府は、被植民地化の恐怖から懸命に取り組んだ諸施策がその後の日本の膨張へと繋がっていった。
ロ) 今回のPART2の前半では、二十一ヵ条要求、満洲国建設等の日本の中国における膨張から始まり、国際連盟脱退(日本の孤立)、日中戦争、アメリカの対日禁輸、日独伊三国同盟、日本軍の南部仏印への進駐、ハルノートへと続き、1941年12月の対米英開戦(真珠湾攻撃)まで繋がった。
ハ) 後半では、日本とアメリカの国力の差、そして最後は原爆投下による敗戦に向かい、戦後処理により膨張した国土と権益のすべてを失う事になったという70年の歴史のはなしです。(発表者談)
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
4月例会は4月10日(日)開催
令和4年4月10日(日)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
発表者 忌部 守さん 演題・・・『聖徳太子の謎と法隆寺修学旅行ツアー』 (午後1時10分~2時10分)
イ) 会員の大多数の方は、何を見たかは覚えていなくても、 修学旅行で奈良の法隆寺へ行かれたご記憶はあると思います。 そこで、学生の頃を思い出して頂いて、もう一度修学旅行で 法隆寺を訪れていただきます。 ロ) しかし、今回は先生やバスガイドさんから聞いた説明とは だいぶ違います。忌部守の主張は、①聖徳太子は暗殺された、 ②法隆寺は飛鳥建築ではない、の二点です。 ハ) 有名な金堂や五重塔のある西院伽藍、夢殿のある東院伽藍 は勿論のこと、初めての西円堂にもご案内致します。興福 寺の北円堂や南円堂は皆さんご存知だと思いますが、法隆寺 の西円堂とは、誰が何の為に建立したのでしょうか? そこから、謎解きの旅が始まります。(発表者談) ≪画像は、法隆寺西円堂への階段(発表者撮影)》 → 忌部守のツアーシリーズの今回は第四弾です。コロナ禍中であっても、皆さんに疑似 修学旅行を楽しんで頂きます。ご期待ください
発表者 宮下 元さん 演題・・・『 はじめにコトバありき?』(午後2時20分~3時20分)
イ)われわれ新人(ホモ・サピエンス)は、ネアンデルタール人などの旧人と何処が、どう違うのか?人類は6万年前の知能のビックバンから、高度な技術文明を築いてきた。
ロ)人類の当初の文字は、表意文字であった。最古の文字はエジプト文字のヒエログリフ(神聖文字)であるが、ロゼッタストーンが発見されてから、シャンポリオンが解読に成功するまで20年が掛かったが、それは謎解きのドラマであった。
ハ)その後、表意文字は次第に廃れ、中国の漢字以外は表音文字のアルファベットに淘汰されてしまった。では、音声言語はどうであったのか?コトバは人類が協力し合うために有効なコミュニケーションであり、直立歩行で脳と喉が解放されて、複雑な発音と自由構文を獲得した。(発表者談)
《画像は、アブ・シンベル大神殿のカルトゥーシュ文字》
発表者 大瀬 克博さん 演題・・・『台湾で最も愛される日本人・八田與一』(午後3時30分~4時30分)
イ) 台湾は、世界一の親日国です。昨年5月に、台湾政府の蔡英文総督が日本人の追悼式に参列しました。その人とは台湾で最も愛される日本人とされる戦前の土木技術者である八田與一です。
ロ) 八田は、台湾で当時東洋最大の烏山頭ダムと灌漑システム嘉南大圳を完成させ、水と食料不足に悩む台湾の人々を救いました。
ハ) 八田が台湾の人々に尊敬され大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範で実行する日本精神にあるとされます。八田の人間性に迫りたいと思います。(発表者談)
《画像は、烏山頭ダムにある八田の銅像と墓(ウィキペディア)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
3月例会は3月7日(月)開催
令和4年3月7日(月)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
発表者 忌部 守さん 演題・・・『聖徳太子の謎と法隆寺修学旅行ツアー』 (午後1時10分~2時10分)
イ) 会員の大多数の方は、何を見たかは覚えていなくても、 修学旅行で奈良の法隆寺へ行かれたご記憶はあると思います。 そこで、学生の頃を思い出して頂いて、もう一度修学旅行で 法隆寺を訪れていただきます。 ロ) しかし、今回は先生やバスガイドさんから聞いた説明とは だいぶ違います。忌部守の主張は、①聖徳太子は暗殺された、 ②法隆寺は飛鳥建築ではない、の二点です。 ハ) 有名な金堂や五重塔のある西院伽藍、夢殿のある東院伽藍 は勿論のこと、初めての西円堂にもご案内致します。興福 寺の北円堂や南円堂は皆さんご存知だと思いますが、法隆寺 の西円堂とは、誰が何の為に建立したのでしょうか? そこから、謎解きの旅が始まります。(発表者談) ≪画像は、法隆寺西円堂への階段(発表者撮影)》 → 忌部守のツアーシリーズの今回は第四弾です。コロナ禍中であっても、皆さんに疑似 修学旅行を楽しんで頂きます。ご期待ください
発表者 宮下 元さん 演題・・・『 はじめにコトバありき?』(午後2時20分~3時20分)
イ)われわれ新人(ホモ・サピエンス)は、ネアンデルタール人などの旧人と何処が、どう違うのか?人類は6万年前の知能のビックバンから、高度な技術文明を築いてきた。
ロ)人類の当初の文字は、表意文字であった。最古の文字はエジプト文字のヒエログリフ(神聖文字)であるが、ロゼッタストーンが発見されてから、シャンポリオンが解読に成功するまで20年が掛かったが、それは謎解きのドラマであった。
ハ)その後、表意文字は次第に廃れ、中国の漢字以外は表音文字のアルファベットに淘汰されてしまった。では、音声言語はどうであったのか?コトバは人類が協力し合うために有効なコミュニケーションであり、直立歩行で脳と喉が解放されて、複雑な発音と自由構文を獲得した。(発表者談)
《画像は、アブ・シンベル大神殿のカルトゥーシュ文字》
発表者 大瀬 克博さん 演題・・・『台湾で最も愛される日本人・八田與一』(午後3時30分~4時30分)
イ) 台湾は、世界一の親日国です。昨年5月に、台湾政府の蔡英文総督が日本人の追悼式に参列しました。その人とは台湾で最も愛される日本人とされる戦前の土木技術者である八田與一です。
ロ) 八田は、台湾で当時東洋最大の烏山頭ダムと灌漑システム嘉南大圳を完成させ、水と食料不足に悩む台湾の人々を救いました。
ハ) 八田が台湾の人々に尊敬され大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範で実行する日本精神にあるとされます。八田の人間性に迫りたいと思います。(発表者談)
《画像は、烏山頭ダムにある八田の銅像と墓(ウィキペディア)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
*会員アンケートは3月7日が締め切りです。
2月例会は2月6日(日)開催
令和4年2月6日(日)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
発表者 佐藤 猛夫さん 演題・・・『清水の次郎長と明治維新』(午後1時10分~2時10分)
イ)「次郎長ハ実名山本長五郎、静岡県駿河国有渡郡清水港ノ人ナリ」は、天田五郎著『東海遊侠伝』の冒頭の文言です。
ロ)次郎長は、文化三年(1820)に生まれ、明治二十六年(1893)波乱に満ちた生涯を閉じました。その人生74年を三分割してみると、第一期(出生~23才)の目に余る悪童・青年時代、第二期(24~48才)の無宿の渡世人時代、第三期(49~74才)の裏街道から足を洗い表社会への復帰という事ができます。
ハ)『東海遊侠伝』を種本にして、次郎長は様々に描かれていますが、明治維新に始まる第三期には、次郎長はそれまでとは真逆の道を歩み始めます。その姿とは?(発表者談)
≪画像は、清水の次郎長像(発表者撮影)》
発表者 宮下 元さん 演題・・・『 はじめにコトバありき?』(午後2時20分~3時20分)
イ)われわれ新人(ホモ・サピエンス)は、ネアンデルタール人などの旧人と何処が、どう違うのか?人類は6万年前の知能のビックバンから、高度な技術文明を築いてきた。
ロ)人類の当初の文字は、表意文字であった。最古の文字はエジプト文字のヒエログリフ(神聖文字)であるが、ロゼッタストーンが発見されてから、シャンポリオンが解読に成功するまで20年が掛かったが、それは謎解きのドラマであった。
ハ)その後、表意文字は次第に廃れ、中国の漢字以外は表音文字のアルファベットに淘汰されてしまった。では、音声言語はどうであったのか?コトバは人類が協力し合うために有効なコミュニケーションであり、直立歩行で脳と喉が解放されて、複雑な発音と自由構文を獲得した。(発表者談)
《画像は、アブ・シンベル大神殿のカルトゥーシュ文字》
発表者 大瀬 克博さん 演題・・・『台湾で最も愛される日本人・八田與一』(午後3時30分~4時30分)
イ) 台湾は、世界一の親日国です。昨年5月に、台湾政府の蔡英文総督が日本人の追悼式に参列しました。その人とは台湾で最も愛される日本人とされる戦前の土木技術者である八田與一です。
ロ) 八田は、台湾で当時東洋最大の烏山頭ダムと灌漑システム嘉南大圳を完成させ、水と食料不足に悩む台湾の人々を救いました。
ハ) 八田が台湾の人々に尊敬され大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範で実行する日本精神にあるとされます。八田の人間性に迫りたいと思います。(発表者談)
《画像は、烏山頭ダムにある八田の銅像と墓(ウィキペディア)》
会場は関内ホール【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
横歴創立40周年記念行事が下記の通り、予定されています。
・創立40周年記念「歴史ツアー・鹿児島2泊3日の旅」 5月25(水)~27日(金)
【ゆくさ・おじゃったもんせ。よかとこ かごんまへ!!】
ーかごんまを、知る・見る・語る、そして食る旅ー
*申し込み先着順にて受付中!参加不参加にかかわらず全員回答ハガキにて返信願います。
・記念式典・祝賀会 9月 日程・会場未定
・特別講演・演芸会 10月 日程・会場未定 小和田哲男先生招聘(予定)
◎ 3月の例会は、3月7日(月)に関内ホール(小ホール)で開催する予定です
12月例会は12月7日(火)開催
令和2年12月7日(火)午後1時00分より関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
発表者 高田 茂さん 演題・・・『七支刀と四世紀の倭国』(午後1時10分~2時10分)
イ)3世紀の倭国は『魏志倭人伝』に記録され、そして5世紀の倭国についても『宋書倭国伝』に倭の五王を中心に記載があるが、その間の4世紀の倭国についての中国の文献史料は存在しない。「空白の4世紀」と呼ばれる所以である。
ロ) このような状況の中で、奈良県天理市の石上神宮に伝えられる七支刀の銘文は、当時の倭国の状況を伝える数少ない貴重な資料である。
ハ) 銘文の釈文についての定説は現状ないが、古代朝鮮と倭国の交渉を直接示す現存最古の文字資料であり、これを検討して、4世紀の倭国の実態に迫って行きたい。(発表者談)
≪画像は、村山正雄編著『石上神宮七支刀銘文図録』による》
→高田さんは、当会では初めてのご発表です。しかし、長く古代史の研究をされており、知られざる4世紀の日本の姿を解明するテーマにご期待下さい!
発表者 真野 信治さん 演題・・・『 鎌倉殿のおじいさん 源為義の虚像と実像』(午後2時20分~3時20分)
イ)「鎌倉殿」と呼ばれる源頼朝の祖父である為義は、いわゆる河内源氏の棟梁として活躍した平安末期の武将とされています。しかし、系図史料を紐解くと様々な顔を見せる不可解な人物であることが分かっています。
ロ)その父は生死不明、母は名前すら知られていないという源氏の棟梁とは思えない家族状況が窺えます。現在我々が目にする系図の九割方が江戸期以降の編纂である中、為義の情報を記載する『尊卑分脈』は室町期に成立した古態を伝える系図史料です。
ハ)今回の発表は、為義の近親で起こった八幡太郎義家の死後の内紛に触れると共に、この不可解な為義の系図情報の謎について迫ってみたと思います。(発表者談)
《画像は、白峯神宮蔵の源為義像》
→渋沢栄一の物語は終わり、来年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』です。その鎌倉殿
の祖父とされる源為義の謎に、系図研究の専門家である真野さんが切り込まれます!
発表者 木村 髙久さん 演題・・・『邪馬台国畿内説は正しいか?』(午後3時30分~4時30分
イ)『魏志倭人伝』に出てくる邪馬台国の所在地については、江戸時代から諸説が出されて論じられて来ましたが、現在は畿内説と九州説に収斂されています。
ロ) ところが、奈良県桜井市の纏向遺跡から大型建物群跡の出土や箸墓古墳の築造時期の見直しなどから考古学者のほとんどが畿内説になっています。また、教科書の記述も畿内説に偏ってきており、従来、九州説であった学者なども畿内説に変更する者も出てきており、まさに九州説は現在は風前の灯火といえる。
ハ)しかし、邪馬台国が畿内にあったという確実な証拠はない。また、『魏志倭人伝』には誤りもあり、どこまで信頼して良いのだろうか。畿内説にも疑問点も多い。そこで、これらの 疑問点を解明しながら真の所在地を明らかにしたい。(発表者談)
《画像は、諏訪原寛幸氏画による卑弥呼図》
→古代史の最大の謎である邪馬台国の所在地について、木村さんが解明されます。果たして、邪馬台国は畿内にあったのか、九州にあったのか?お楽しみに!
会場が変更になっています。
関内ホール 【小ホール (規制下132席) 】
横浜市中区住吉町4-42-1 ☎ 045-662-1221
JR・地下鉄「関内駅」北口下車、徒歩6分
みなとみらい線「馬車道駅」下車、徒歩5分
11月例会は11月9日(火)開催
令和3年11月9日(火)午後1時より 横浜開港記念会館講堂
発表者 森 彩子さん 演題 『開港横浜で生まれた仏蘭西瓦―ジェラ―ル瓦― 』
(午後1時10分~2時10分)
イ)安政六年(1859)、日米修好通商条約を基に横浜が開港した。日本の近代化の窓口となった開港期の横浜で、日本最初の西洋瓦がフランス人、A.ジュラ―ルによって製造・販売された。
ロ)新しい街並みの主役となった洋風建築を特徴づけたものは、日本にはなかったレンガや西洋瓦などの建築材料であったその瓦は、製造者の名に因み「ジェラール瓦」と呼ばれている。しかし、明治時代の西洋建築の普及と共に、文明開化の象徴の一つと言われたジェラール瓦の製造は20年足らずで終わった。
ハ)その後、関東大震災や第二次世界大戦の荒廃の中で、ジェラール瓦を使用した建物は失われ、文字通り瓦礫と化し、人々の記憶からも忘れ去られてしまった。(発表者談)
《画像は、横浜都市発展記念館『地中に眠る都市の記憶』より》
→「ジェラール瓦」とはどのような物か、日本の伝統的な瓦製造にもたらした影響について、森さんが発表されます。森さんのご発表は初回ですが、既に「通(つう)」の域に達していますね
発表者 高橋 正一さん 演題 『『翁草』著者自筆原本(一部他筆)の再発見について』(午後2時20分~3時20分)
イ) 会報誌第80号に「蘇った翁草」と題して,昭和63 年に発見され、その後行方不明になっていた翁草の著者である神沢杜口の自筆原本が先頃再発見されたことを書いたが、そこに至る顛末について報告したい。
ロ)また、再発見した在野史家である奥野照夫氏は、この写本が多数現存する写本ではなく、著者による原本であることを検証されたので、その根拠や理由も併せて報告する。
ハ)江戸時代の随筆として著名な翁草の著者自筆原本が再発見され、さらには原本であることが確認されたのは快挙であると言える。発表では、原本の意義、奥野氏が同書から判明・推定した新事実も紹介し、私見を述べたい。(発表者談)
《画像は、入江家蔵『翁草』巻57冒頭(発表者撮影)》
→明智光秀を信長に推挙したのは、光悦の父「本阿弥光二」であるとする高橋さんの持説が、今回『翁草』の原本が再発見されたことで一歩進んだのは、ご存知の通りです。聞き逃せません!
発表者 加藤 導男さん 演題 『悲運の比企一族と陰謀の北条一族を検証する 』
(午後3時30分~4時30分)
イ)鎌倉幕府の草創期には、比企氏は源頼朝の乳母父(めのと)として勢力を持ち、比企能員は御家人筆頭の立場で北条氏を凌いでいた。頼朝の長男である頼家は、比企氏館で誕生しており、北条政子も比企氏館で頼家を産んでいる事になる。
ロ)頼朝の死後、頼家が二代将軍になったものの、次男の実朝を擁する北条氏は、他の御家人と結託して頼家・能員を蹴落とす計画を立て、「比企氏の乱」で比企一族は滅亡した。さらに、
北条氏は他の御家人を次々と粛清して権力を握っている。
ハ)さらに、三代将軍の実朝暗殺の実態や、鎌倉時代の基本史料である『吾妻鏡』の北条氏寄りの記述についても触れたいと思います。来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公が、悪行を重ねた北条義時と発表されており、発表者としては納得できないが、大河ドラマが史実を正しく伝えるのかどうか注目している。(発表者談)
《画像は、鎌倉妙本寺(比企氏館跡)、発表者撮影》
→加藤さんは、これまで比企氏の研究を会報誌などで発表されてきましたが、今回の発表は北条氏を含めた研究の集大成になるそうです。お楽しみに!
◎ 今月24日(日曜)には、待望の『横歴はま寄席』(開港記念会館講堂・13時開演)が開催されます。
代金(木戸銭500円)は当日払いで、予約を受付中。各班の班長までお申し出下さい。
◎ 12月例会は、12月7日(火曜日)の開催予定です。なお、開港記念会館が、改修工事のためしばらく閉鎖になります。
次回は関内ホールでの開催 になります。お間違えないようにお願い致します。
関内ホール(小ホール) 中区住吉町4-42-1 TEL 045-662-1221
JR関内駅北口より徒歩6分・地下鉄関内駅9番出口より徒歩3分
9月例会は9月11日(土)開催
令和3年9月11日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂
発表者 遠田 千代吉さん 演題 『二上山に偲ぶ 大津皇子山頂墓』
(午後1時10分~2時10分)
イ)謀反の嫌疑をかけられた大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされている。しかしながら、7世紀後半に古墳が山頂に造営されることは有り得ない。何故、大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされるのだろうか?その背景には、何らかの理由があるに違いない。
ロ) 墓の所在地を記す最初の文献は、『万葉集』の「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る」との題詞である。その後、「二上山墓」は伝承としては語り伝えられたものの文献史料はなく、江戸時代の『大和志』の中で「山頂墓」として記述されただけである。
ハ)以上を背景に、明治初期に墓域が整備されたのが現在の大津皇子の「二上山山頂墓」であり、ここに至る経緯を探って行きたい。(発表者談)
《画像は、宮内庁の二上山墓(発表者撮影)》
→大伯皇女(おおくのみこ)が「明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む」と、万葉集の歌を謳った二上山の何処に、本当の大津皇子の墓はあるのでしょうか?聴きのがせません!
発表者 武田 収功さん 演題 『水銀の道 飛鳥池工房遺跡の出土品』(午後2時20分~3時20分)
イ)97年12月から開始された飛鳥池工房遺跡の発掘調査で、直径5ミリ程の一点の銀粒が出土した。分析の結果、銀のアマルガム(水銀の合金)と判明し、付近にはアマルガム法による製錬・精錬過程を示す坩堝類なども見つかった。
ロ)この事実は、古代のわが国で鍍金(メッキ)が既に行われていた可能性を示す重要な発見であり、この技術が後の東大寺大仏造営の基礎技術となったことは想像に難くない。一粒の銀粒は、工房の技術集団の好奇心と無心の努力を想像させる。それは、天武・持統朝の律令国家体制を支えた技術・工業の礎となったと考えられる。
ハ)発表では、鍍金に必要な辰砂・水銀がどの地域から工房に運ばれたのか、また飛鳥に向かう「水銀の道」の経路がどのような道であったのかを地理的に外観する。(発表者談)
《画像は、海石榴市付近の大和川で、長谷方面を望む(発表者撮影)》
→古代ヤマトの「水銀の道」は、何処にあったのでしょうか?化学の専門家でもある武田さんの初めての発表です。ご期待下さい!
発表者 植木 静山さん 演題・・・『幕末、サムライ達の「北方領土交渉」』
(午後3時30分~4時30分)
イ)嘉永6年(1853)6月、アメリカのペリー提督が浦賀に来航したが、翌月には、今度はロシアのプチャーチン提督が長崎に来航して、開国と交易のほかに北方領土と国境を定めたいと提案してきた。
ロ)ロシアは、中東でも南下政策を進めてオスマントルコと対立しており、これを支援する英仏とも対立していたが、勿論日本にはそんな海外事情は分からなかった。やがて、ペリーが強力な艦隊を率いて江戸湾に再来して日本を開国させ、幕府は和親条約を結んでしまう。次に、長崎にやって来たのは、ロシアではなく、世界最強のイギリス艦隊であった。
ハ)イギリスはクリミヤ戦争でトルコに味方しており、日本にロシアの領土拡張の意図を伝えてイギリスとの条約を迫り、のちの日英同盟に通じる条約を結ぶ。一方、再度単船で乗り込んだプチャーチンは下田で帆船を失うが、日本は帰国用の洋式帆船の建造を支援する。やがて、結ばれた日露通好条約には、北方領土四島が日本の領土として明記された。しかし、それは日本の支援による結果ではなかったが、プチャーチンは日本の支援を終生忘れることはなかった。(発表者談)
《画像は、ウィキペディア「北方領土問題」による》
→多数の著書を発表されている植木さんが、知られざる幕末の「北方領土問題」に切り込まれます。お楽しみに!
8月例会は8月14日(土)に開催されます
令和3年8月14日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂
発表者 遠田 千代吉さん 演題 『二上山に偲ぶ 大津皇子山頂墓』
(午後1時10分~2時10分)
イ)謀反の嫌疑をかけられた大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされている。しかしながら、7世紀後半に古墳が山頂に造営されることは有り得ない。何故、大津皇子の墓は、二上山の山頂にあるとされるのだろうか?その背景には、何らかの理由があるに違いない。
ロ) 墓の所在地を記す最初の文献は、『万葉集』の「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る」との題詞である。その後、「二上山墓」は伝承としては語り伝えられたものの文献史料はなく、江戸時代の『大和志』の中で「山頂墓」として記述されただけである。
ハ)以上を背景に、明治初期に墓域が整備されたのが現在の大津皇子の「二上山山頂墓」であり、ここに至る経緯を探って行きたい。(発表者談)
《画像は、宮内庁の二上山墓(発表者撮影)》
→大伯皇女(おおくのみこ)が「明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む」と、万葉集の歌を謳った二上山の何処に、本当の大津皇子の墓はあるのでしょうか?聴きのがせません!
発表者 武田 収功さん 演題 『水銀の道 飛鳥池工房遺跡の出土品』(午後2時20分~3時20分)
イ)97年12月から開始された飛鳥池工房遺跡の発掘調査で、直径5ミリ程の一点の銀粒が出土した。分析の結果、銀のアマルガム(水銀の合金)と判明し、付近にはアマルガム法による製錬・精錬過程を示す坩堝類なども見つかった。
ロ)この事実は、古代のわが国で鍍金(メッキ)が既に行われていた可能性を示す重要な発見であり、この技術が後の東大寺大仏造営の基礎技術となったことは想像に難くない。一粒の銀粒は、工房の技術集団の好奇心と無心の努力を想像させる。それは、天武・持統朝の律令国家体制を支えた技術・工業の礎となったと考えられる。
ハ)発表では、鍍金に必要な辰砂・水銀がどの地域から工房に運ばれたのか、また飛鳥に向かう「水銀の道」の経路がどのような道であったのかを地理的に外観する。(発表者談)
《画像は、海石榴市付近の大和川で、長谷方面を望む(発表者撮影)》
→古代ヤマトの「水銀の道」は、何処にあったのでしょうか?化学の専門家でもある武田さんの初めての発表です。ご期待下さい!
発表者 宮下 元さん 演題 『はじめにコトバありき?』
(午後3時30分~4時30分)
イ)われわれ新人(ホモ・サピエンス)は、ネアンデルタール人などの旧人とどこが、どう違うのか?人類は6万年前の知能
のビックバンから、高度な技術文明を築いた。
ロ)当初の文字は、表意文字であった。最古の文字はエジプト文 明のヒエログリフ(神聖文字)であるが、ロゼッタストーンが
発見されてから、シャンポリオンが解読に成功するまで20年が掛かった。それは謎解きのドラマだった。
ハ)その後、表意文字は次第に廃れ、中国の漢字以外は表音文字のアルファベットに淘汰されてしまった。では、音声言語
はどうであったのか?コトバは人類が協力し合うために有効なコミュニケーションであり、直立歩行で脳と喉が解放されて、複雑な発音と自由構文を獲得した。(発表者談) 《画像は、アブ・シンベル大神殿のカルトゥーシュ文字》
→コトバと人類の関係を、ゲンさんが解き明かします。目からウロコになること、請け合いです。お楽しみに!
7月例会は7月3日(土)開催
令和3年7月3日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂
発表者 瀬谷 俊二郎さん 演題 『膨張の70年(PART 1) 』
(午後1時10分~2時10分)
イ)日本の近代化は、明治維新を起点としている。そして、その明治維新とは、天皇を擁した薩長勢力が官軍となり、鳥羽伏見の戦いで賊軍となった幕府勢力を破って新政府を樹立したところから始まる。
ロ) この時代を世界史的に見ると、いわゆる帝国主義の時代で、イギリス・フランス・オランダ、少し遅れてアメリカ・ドイツ等の先進欧米諸国が、覇を競って統治領域や通商領域の拡大を図っていた時代であり、日本は被植民地化の恐怖から早急に国を近代的な統一国家にまとめ上げ、一刻も早く先進国となる必要があった。
ハ)このような環境下で、薩長の下級武士を中心とした新政府が懸命に取り組んだ諸施策が、その後の日本の膨張へと繋がっていくことになる。具体的には、富国強兵・殖産興業・国民教育を三本柱とした諸施策である。(発表者談)
《画像はビゴーの日露戦争の風刺画より》
→昭和の日本敗戦の遠因は何処にあったのか? 経済学にも造詣の深い瀬谷さんの近現代史の総決算とも言えるご発表です。ご期待下さい。
発表者 森岡 璋さん 演題 『将軍綱吉と柳沢吉保』(午後2時20分~3時20分)
イ)前回の発表では、柳沢吉保が僅か530石で綱吉に仕え、大老格の二十二万石余の大名に出世を遂げた道程を紹介したが、今回は、綱吉が何故吉保を厚遇したのか、史料から推察してみたい。
ロ)まず、通算58回に及んだ綱吉の柳沢邸への御成の内容である。綱吉による儒学の講義に始まり、次いで家臣による問答や講釈があり、綱吉自身も数曲舞う能(仕舞もあり)で終わるのが通例であった。
ハ)したがって、理由の一つは急拡大した柳沢家による各分野の当代一流の人材を揃えた最強の家臣団の存在であり、綱吉が満足する知的な時間が演出されていたこと。もう一つは朝廷との接点である。吉保の側室である正親町町子は権大納言実豊の娘であり、兄公通も朝廷の内情に通じていたと推察される。(発表者談) 《画像は甲府恵林寺の柳沢夫妻の墓》
→文献解読がお得意の森岡さんによる、将軍綱吉と柳沢吉保の続編です。なぜ、吉保が大老格の大名になることができたのか? ご期待下さい。
発表者 古谷 多聞さん 演題 『ノモンハン事件の真相 』
(午後3時30分~4時30分)
イ)「日本の兵隊さん 直ちに白旗を掲げて降伏しなさい 君達は完全に包囲されていて後方は遮断されて いる 戦ってもあと2~3日の命です!」
ロ)これは、日本軍将兵に向かってのアメリカ軍の投降の呼掛けではなく、その5~6年前の昭和14年8月に当時の満洲国の国境ノモンハン付近で、日本将兵に送られたソ連軍の放送の内容である。
ハ)今回の発表は、陸軍シリーズ第三弾として、82年前に起きた「ノモンハン事件」をテーマとして、そのプロローグとして事件直前の①日本政府・参謀本部・関東軍の動静、②敵対したモンゴル、ソ連の動向、③事件の遠因となったモンゴルと満洲国の国境問題、に的を絞り、私の独断、独善、偏見、そしてこだわりを織り込みながら、事件の真相をお話しします。(発表者談)
画像は、ゴールドマン『ノモンハン1939』から》
→本来は陸の国境がなかった日本に、満洲国建国により突然新しい「国境」が出現、日本政府と関東軍はこの国境問題にどう対処したのか? 多聞さんの陸海軍オタク・シリーズをお楽しみに!
6月例会は6月12日(土)に開催されます。
令和3年6月12日(土)午後1時より 横浜開港記念会館講堂
発表者 林 久幸さん 演題 『 後北条氏五代とその後の小田原城 』
(午後1時10分~2時10分)
イ)戦国の魁(さきがけ)、北条早雲のルーツである備中荏原荘(岡山県)、そして高越城は、早雲が生まれてから青年期までを過ごした城で、南北朝の争乱の舞台となった。(幕府政所執事の伊勢氏)
ロ)早雲は、駿河国(静岡県)の守護の今川義忠の正室であった 妹・北川殿を補佐すべく今川家の客将となったが、忠義急死後に今川館を襲撃し、北川殿の子である龍王丸(のちの氏親)を当主に据えた。
ハ)その功により、長享二年(1488)頃に伊豆との国境付近の興国寺城の城主となったが、小田原城を息子の氏綱にまかせて駿河を離れなかったのは、甥でもある今川氏親の後見としての役割だった。併せて、後北条氏五代のあと、大久保忠世~稲葉正勝~十八代大久保忠良までの江戸時代の小田原城について語る。(発表者談)
いよいよ、初登場の林さんです。今まであまり知られていない北条早雲とその後の小田原城について、熱弁をふるわれます。ご期待下さい。
発表者 粟 光行さん 演題 『 聖徳太子 その系譜と業績』(午後2時20分~3時20分)
イ)聖徳太子の父親は、第31代用明天皇で、その父親は欽明天皇、母親は堅塩媛です。さらに、太子の母親、穴穂部間人皇女の父親は同じ欽明天皇で、母親は小姉君、そして堅塩媛と小姉君は蘇我稲目の娘で姉妹、つまり聖徳太子の祖父は欽明天皇、曾祖父は稲目、父用明天皇と母穴穂部間人皇女は異母兄弟となり、天皇家と蘇我氏の両方の血を引くだけでなく、蘇我氏の堅塩媛系と小姉君系の二重の血統を受け継いでいる。聖徳太子は蘇我稲目により人為的に作り上げられた人物に思われてならない。
ロ)『隋書』には、開皇二十年(600)と大業三年(607)の2回にわたる日本の使節の来朝を記載している。ところが、『日本書紀』には大業三年(推古十五年)の小野妹子の遣隋使の記述はあるが、その前の開皇二十年のものはない。この時、隋の文帝に日本のことを聞かれた使者は、女帝の国は未開国と思われる(当時の中国の認識)と考え、訳の分からない返事をして文帝に嘲笑された。
ハ)世界第一の強大国・文明国である隋から、日本ははなはだ野蛮国・未開国と思われ嘲笑された。太子は、この屈辱の思いを心の糧として、以後猛烈なスピードで中国並みの文化国家・律令国家を建設しようと努力する。(発表者談)
粟さんは、久しぶりのご発表です。今年は聖徳太子の遠忌1400年の年で、最近、『私の中国史 漢と司馬遷』を出版され、中国古代史にも詳しい粟さんの聖徳太子論、ご期待下さい。
発表者槙 良生さん 演題『 平民宰相 原敬の生涯』
イ)大正7年(1918)9月29日、日本初の政党内閣が設立された。
これを成し遂げたのが明治後期から大正にかけて活躍した類まれな政治家、原敬である。彼は薩長ではなく南部藩盛岡に生まれ、新聞記者や外交官といった多彩な経験を経て総理にまで上り詰めた。
ロ) 彼には「平民宰相」として極めて高い評価がある一方で、官僚・軍
閥勢力と妥協をしながら政治を進める「斬進主義者」という冷めた見方もあったのである。時はちょうど第一次世界大戦から、米国の台頭、欧州の地盤沈下、ロシア革命、社会主義国家ソビエト連邦の誕生と激動の時代を迎えていた。原はその中にあって、元老山県有
朋などを抑えつつ、政治・経済・軍事・外交と様々な難題に取り組みながら、日本の舵取りをしなければならなかったのである。
ハ)大正10年(1921年)11月4日、原は19時30分に東京駅を出る列車に乗るために改札口に向
かっていたところで暗殺された。今年は丁度没後百年になるので、彼に焦点を充てて、縦横無尽の活躍を通してその真の姿に迫ってみたいと思う。(発表者談)《画像はウィキペディアによる》
→好評の槙良生さんによる近現代の人物評伝シリーズです。今回は、没後百年になる平民宰相として有名な原敬の生涯に取り組まれます。ご期待ください。
4月例会は4月4日(日)に開催されます。
4月4日(日)開港記念会館講堂
発表者 忌部守さん 演題「日本書紀1301年と平城京ツアー」 午後1時10分~2時
イ)昨年は、『日本書紀』が編纂されて1300年の記念の年でした。『日本書紀』は720年に編纂された八世紀初頭の律令政府の謂わば公式見解で、記載された内容のすべてが史実ではありません。例えば、ヤマト王権にとって統治の正当性を主張するためのアマテラス神話、そして律令国家の建設は既に大化改新の時から本格的に始まっていたなどの記述は、編纂時点の潤色に他なりません。
ロ)『日本書紀』潤色の事例や特徴を述べながら、やはり八世紀初頭に完成した現在の奈良市街地に当たる古代の平城京に、皆様をご案内します。青によし奈良の都は咲く花の・・・さしずめコロナ禍中のオンラインツアーという事になるでしょうか?
ハ)復元工事中の大極殿院と朱雀門、昨年再建されたばかりの興福寺中金堂、さらに薬師寺や唐招提寺の堂々たる仏教伽藍、そして奈良貴族たちが平城京の何処に住んでいたのかご案内します。(発表者談)
→邪馬台国、百舌鳥・古市古墳群ツアーに引き続いて、忌部守さんのツアーシリーズの第三弾です。お楽しみください。
特別講演 午後2時30分~4時00分
講師・・・柴 裕之 先生
演題・・・『 山崎合戦の性格-本能寺変後の主導権争い 』
略歴
・昭和48年(1973)東京都生まれ
・東洋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学・東洋大学)
専門は日本中近世移行期(戦国・織豊期)政治社会史。戦国・織豊期の政治権力
と社会についての研究を専門とする。
・現在、東洋大学文学部史学科非常勤講師。
主な著書
【単著】
・『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』:岩田書院、2014年
・『徳川家康-境界の領主から天下人へ-』:平凡社、2017年
・『シリーズ実像に迫る17清須会議-秀吉天下取りへの調略戦-』戎光祥出版、2018年
・『織田信長-戦国時代の「正義」を貫く-』:平凡社、2020年12月刊行予定
【編著】
・『論集戦国大名と国衆20 織田氏一門』:岩田書院、2016年
・『図説 明智光秀』:戎光祥出版、2018年
・『織豊大名の研究8 明智光秀』:戎光祥出版、2019年
・『図説 豊臣秀吉』:戎光祥出版、2020年
【監修】
・すずき孔『マンガで読む 新研究 織田信長』:戎光祥出版、2018年
・すずき孔『マンガで読む 信長武将列伝』:戎光祥出版、2019年
総会後、初の例会となります。感染防止とリスクを最小限に抑えるために引き続き検温・消毒・マスクの着用と間隔を空けてのご着席にご協力お願いいたします。会としては今後ともコロナ感染の進捗状況を見ながら例会開催の可否を判断します。今後の予定についてはHPに随時掲載および班長からの連絡にてご確認ください。
定期総会開催、新春講演会中止
感染リスクを極力避けた例会開催を実施いたします。
1月11日(月・祝)の総会は会員の感染リスクを極力避けるという方針で催行されました。また、当日の新春講演会は中止となりました。改めまして、芝先生の講演は4月4日に順延(予定)となります。総会では昨年度の収支報告や本年度の予算案、活動予定、役員人事などの報告が行われ、出席者および委任状による承認を頂きました。
2月例会も休止いたします。
2月例会の開催は緊急事態制限下となりますので、休止順延いたします。併せて今後の例会開催等も新型コロナ感染状況を踏まえての実施となります。活動予定の進捗は逐次ご案内いたしますのでよろしくお願いいたします。
1月11日(月・祝)令和3年度定期総会・新春講演会が行われます
令和3年度の定期総会・新春講演会を下記の通り開催致しますので万障お繰り合わせの上、皆様のご出席をお願い申し上げます。定期総会は令和2年度の総括と当会の今後の方向を定める会です。ご出席いただけない方は出欠席はがきを必ずお出しいただくようお願いいたします。(12月30日までに投函)なお、恒例の新年祝賀会については新型コロナウイルス感染予防のため取り止めとなりますのでご了承のほどお願い致します。
例会に出席の方は年会費(4千円)をお願いしますが、例会費は頂きません。
なお年会費は同封の郵便局振込票による振り込みでも結構です。
*当日は各自マスクの着用をお願いします。
*会場内においては会館からの注意事項を守り、ご参加いただくようお願いします。
1.日 時: 1月11日(月・祝日)
午後1時00分~4時10分
2.会 場:横浜市開港記念会館 講堂
第一部 令和3年度 定期総会(午後1時~2時10分)
主な議題
(1)令和2年度活動報告 (5)会報の発行について
(2) 同上 会計報告 (6)規約改正
(3)令和3年度活動計画 (7)役員異動
(4) 同上 予算案 (8)報告事項 表彰
※ 総会に欠席の回答をされた方は、全議題について議決権を
委任されたこととみなします。
第二部 新春講演会 (午後2時30分~4時00分)
演題・・・『 山崎合戦の性格-本能寺変後の主導権争い 』
講師・・・柴 裕之 先生
大河ドラマ「麒麟がくる」は2月で終了します。クライマックスの本能寺変直後の動向と山崎合戦とはどのような戦いであったのか。NHK BSの特集番組「本能寺の変サミット2020」にも当時代の専門的研究家として登場した柴 裕之先生の講演にご期待下さい。
略歴
・昭和48年(1973)東京都生まれ
・東洋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学・東洋大学)
専門は日本中近世移行期(戦国・織豊期)政治社会史。戦国・織豊期の政治権力
と社会についての研究を専門とする。
・現在、東洋大学文学部史学科非常勤講師。
主な著書
【単著】
・『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』:岩田書院、2014年
・『徳川家康-境界の領主から天下人へ-』:平凡社、2017年
・『シリーズ実像に迫る17清須会議-秀吉天下取りへの調略戦-』戎光祥出版、2018年
・『織田信長-戦国時代の「正義」を貫く-』:平凡社、2020年12月刊行予定
【編著】
・『論集戦国大名と国衆20 織田氏一門』:岩田書院、2016年
・『図説 明智光秀』:戎光祥出版、2018年
・『織豊大名の研究8 明智光秀』:戎光祥出版、2019年
・『図説 豊臣秀吉』:戎光祥出版、2020年
【監修】
・すずき孔『マンガで読む 新研究 織田信長』:戎光祥出版、2018年
・すずき孔『マンガで読む 信長武将列伝』:戎光祥出版、2019年
ほか
12月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます
12月1日(火)開港記念会館講堂
小林 道子さん 演題『 金印発見―志賀島の甚兵衛は何処へ消えたのか 』
イ)「漢委奴国王」印は天明4年(1784)、筑前国志賀島の水田で偶然見つかった。長い間福岡藩の藩庫で保管されていたが、重要な歴史資料ということで昭和6年に国宝に指定されたのち、昭和29年、国宝に再指定された。昭和54年には黒田家から福岡市に寄贈され、その後は平成2年10月に開館した福岡市博物館に移管されている。
ロ)中国の歴史書『後漢書』には建武中元2年(西暦57年)に光武帝が「倭奴国王」に印綬を与えたことが記されており、金印に刻まれた「漢委奴国王」の5つの文字は漢の皇帝が「委奴国王」に与えた印であることが分かる。そしてこの印が志賀島で見つかった金印と考えられている。
ハ)江戸時代から現代まで金印について研究が行われてきたが、出土状況は不明のままであり、なぜ志賀島から発見されたのか、金印は本物か、第一発見者とされる甚兵衛は実在したのかなど多くの謎が残る。今回の発表では甚兵衛の口上書や金印を鑑定した儒学者亀井南冥、中国の歴史書に記されている倭国、二つの藩校(甘棠館・修猷館)が提出した論考などから、金印の謎を解き明かすために調べたことをお話ししたい。
金印「漢委奴国王」福岡市博物館所蔵
中村 康男さん 演題『 明治新政府、勢力闘争と近代化の歩み 』
~旧土佐藩士大目付下村銈太郎盛俊の役職から読み解く~
イ)日本の歴史に残る一大改革であった明治維新は、前の体制である江戸幕府を倒し、新たな体制への移行であった。
ロ)政権交代を成し遂げた明治新政府は、列強の欧米諸国に負けない国造りに着手したが、そこで西洋文明を模倣する近代化を目指した。近代化の道のりは、決して平坦ではなく、意見の対立や連続した側面と不連続な側面も持ち合わせた。
ハ)明治新政府における全国統治や近代化という大事業が、どのような統治の行政システムで、どのような人材によって推進されたかを知るうえで、私の高祖父である旧土佐藩士大目付下村盛俊の役職から読み解くことが有意義であったので、ここに記してみたい。
「横浜新地蒸気車鉄道之真景」三代目歌川広重(横浜市中央図書館所蔵)
長尾 正和さん 演題『 元禄期の大大名 良将、善将、悪将、愚将-「土芥冦讎記」- 』
イ)「土芥冦讎記」(どかいこうしゅうき)は、江戸時代が始まって90年後の元禄3年(1690)時点での全国243人の大名についての人物評価を記した書であり、現存するのは東大史料編纂所にある1冊のみである。
ロ)本書は作成目的、編纂者等々不明な点も多く、謎の書とも言われているが、五代将軍綱吉のときの、幕府内部でのマル秘資料であったのではないかとも推定されている。
ハ)現在では元禄期にいた大名について述べるとき時折引用されており歴史学者、磯田通史氏が「殿様の通信簿」という著作で紹介したので存在もだいぶ知られるようになった。 ここでは「良将」、「善将」とされる大名もいる中で、「悪将」、「愚将」などと決めつけられている大大名も多くいる。この書についての研究は極めて少ないが、それらをもとにこの書の資料的価値を探ってみることとする。
11月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます
11月8日(日)開港記念会館講堂
長谷川 憲司さん 演題『 近代日本が生んだ世界的細菌学者 野口英世 の実像 』
細菌学者野口英世は戦前は修身、戦後は国語の教科書にも取り上げられており、立志伝中の科学者として、千円札にも取り上げられる程多くの日本人に愛されてきました。
英世は貧窮と左手傷害からの逆境を跳ね返し、「忍耐」、「勤勉」、「努力」、「意志の強さ」「立志」による偉人と高く評価されてきましたが、真の英世の人物像、
特に科学者としての世界的業績はその時代、更にその後においても十分に評価に耐え得るものであったのでしょうか。
後世の人々によって多くのことが云い伝えられていますが本当の英世の人物像はどうであったのか? 最後に世界的に注目を集めた「黄熱病」で命を落とすことになった医学者野口英世が残した細菌学の業績は真に国際的にどのような評価がされているのか? このような観点に立って、明治の偉人野口英世の人物像を簡潔に掘り下げてみました。(発表者談)今回が初めての発表ですが、同じく医学界に身をおく長谷川さんの発表楽しみですね。
(写真/ロックフェラー医学研究所実験室にて野口英世 41歳)
斎木 敏夫さん 演題『 宇佐八幡と八幡神 』
日本の神社数第一位は稲荷社で第二位が八幡社です。702年の戸籍台帳によると豊前の人口の9割以上が秦氏であり「秦王国」を形成していたと記載されています。秦氏一族は豊前に留まらず山背国(太秦)など各地に拡がり、様々な活躍をしました。八幡神の「八幡」は唐の軍制の象徴である「八幡・四鉾」の八幡に由来するといわれ、新羅系の渡来人の秦氏が持ち込み、それと古来の海神の宗像三女神信仰が習合し、更に隼人征服の過程で 八幡神と応神天皇が一体化し、宇佐八幡が成立しました。そして749年大仏造立のために東大寺鎮守・手向山八幡宮の神として入京しました。
781年頃朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩の号を授け、「八幡大菩薩」となりました。859年宇佐八幡宮から八幡大菩薩を男山に勧請し、翌年八幡造の社殿を造営しました。山城と摂津の国境で都の裏鬼門にあたり、王城守護の役割で勧請されました。
源義家が当社で元服したこともあって八幡太郎義家と名乗り、武神とし快慶作 東大寺として信仰され、源氏の広がりとともに鶴岡八幡宮など各地に八幡宮が勧請され、源氏の氏神となりました。これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、現在に至っています。誰でも知っている八幡神、でも詳しい由来は・・・・・これを機会に勉強しましょう!
(写真 僧形八幡神座像〈国宝〉)
高尾 隆さん 演題『 間宮林蔵は善人か悪人か 』-歴史は後世に脚色されるー
先日朝日の文化欄に、奈良時代の文人政治家吉備真備が中国の留学中に書いたという“墓誌”発見の記事があった。亡くなった唐王朝の官僚の業績等を記したもので、「日本」の文字が確認できる4例目という貴重なものであるという。しかし中国の一部の研究者から「日本人に唐の官僚の墓誌を書かせるはずがない」といった偽物説が出ているそうだ。
この感情的ともとれる反対説にあるように、歴史は向き合おうとする人間の考えによってどのような方向へも進むのである。発表させていただく間宮林蔵は「間宮海峡」を発見した世界的な探検家という称号と、シーボルトを追放した隠密という後世の評価がある。
前者は過酷な体験をしながら海峡へたどり着き、大陸へ渡るという快挙を果たし、幕府からも認められる。後者はシーボルト事件の密告者や西国諸藩の密貿易を摘発したスパイ役という汚名である。しかしこの両者が究明されたのは明治以降である。それは正しい見方なのか、歴史研究は面白いが、恐ろしいことでもある。(発表者談)
(写真/岡堰の間宮林蔵像)
10月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われます
令和2年10月12日(月)1時より 横浜開港記念会館講堂
大瀬 克博さん 演題『 義和団事件の英雄・会津人柴五郎の生涯 』
会津人・陸軍大将柴五郎は欧米で広く知られることになった最初の日本人です。
柴五郎10歳の時に戊辰戦争の会津攻防戦で祖母、母、嫂、姉、妹が自刃して亡くなります。
そして会津藩の斗南藩移封により父に連れられ極寒の地・下北半島に移住し辛酸を舐める幼少時代を送ります。
その後、陸軍幼年学校に入り卒業後はアメリカで陸軍武官として米西戦争の見学、そして諜報活動を兼ね北京から朝鮮を縦断し各国の文化や国民性を学びます。
1900年に起きた義和団事件では外国11ヶ国の公使館関係者900名と中国人3,000名が籠城して義和団と戦います。55日間の籠城戦で最も素晴らしい活躍をしたのが柴中佐に率いられた日本軍で、司令官の柴はコロネル・シバとして世界で名声を博します。その時に英国が持った日本への信頼が日英同盟につながったと言われます。
福島県で初の陸軍大将となった柴五郎の激動の生涯、楽しみです。(写真/会津人 柴五郎)
高野 賢彦さん 演題『 大王(おおきみ)を支えてきた大伴氏の最期 』
大伴氏は天孫降臨族であろう。その名の示すとおり大王の側近としての軍事・警備の長官となり有力な名門貴族として存在してきた。ところが貴族でもない藤原鎌足・不比等・仲麻呂が藤原氏の支配権を確立しようとして貴族や同僚を次々に屈服させ、ついに大伴氏をも没落させてしまった。
藤原氏に対して大伴氏は安麻呂・旅人・家持が対応していたが、人事権を掌握していた藤原氏、特に仲麻呂は他の貴族らに対してと同様に大伴氏に対しても地位や官職を昇進させながら、巧妙に追い落としていった。
今日、藤原氏が繁栄しているのはその結果ではなかろうか。
家持は途中で藤原氏の謀略、没落してゆく大伴氏の行く末に気が付いたようである。しかし、その時はすでに遅かった。そこで家持は得意としている歌を収集して歌集を作ることを思い立ち、大伴氏の鎮魂歌として『万葉集』の編纂に注力したのではないであろうか。
歌人として知られる大伴家持ですが、本来の官吏としての家持の姿興味深いですね。(写真/大伴家持 三十六仙額)
清水 漠さん 演題『 赤備え 虎昌・昌景 & 直政・幸村 』
戦国時代の武将(大名)にとって「備え」とは自己・領土を守り、他国の領土を奪うため<強い軍事力の保持>。それが最大の「備え」であった。
武田の赤備え:<甲山の虎>と呼ばれ、最初に【赤備え】で武装させた飯富虎昌。虎昌死後は弟(甥とも)<武田四天王>の一人・山県昌景に。
【赤備え=精鋭・最強集団】というイメージが諸大名に定着した。
井伊の赤備え:武田氏滅亡後、昌景の遺臣達は井伊直政につけられ【井伊の赤備え=赤鬼】に。真田の赤備え:大阪夏の陣、豊臣方についた真田幸村(信繁)は武田家由来の【赤備え】で部隊を編成し、家康本陣を攻撃し突き崩しを成し遂げる。
赤は戦場で目立ち標的になり易いが、敢えて赤備えで勇を示した精鋭部隊、面白そうですね。(写真/山県昌景肖像 山県館蔵)
再開9月例会は横浜開港記念会館・講堂で行われました
令和2年9月6日(日)開港記念会館講堂1時開始
第一部 会員発表
木村 髙久さん 演題『 乙巳(いっし)の変と大化改新の真相 』
(午後1時10分~2時25分)質問時間含む
日本最古の正史である『日本書紀』が第44代元正天皇に奏上されてから今年で1300年となる。この節目の年に因み『日本書紀』の論点の一つと言われる「乙巳の変と大化改新」について真相を究明することとした。「乙巳の変」について『日本書記』は次のように記述する。西暦645年6月、飛鳥板(いた)蓋宮(ぶきのみや)で皇極天皇が臨席のもと三韓の朝貢の儀が行われた。その最中に中大兄皇子と中臣鎌子らにより蘇我入鹿が暗殺され、翌日、父の蝦夷も自殺して蘇我本宗家は滅亡したとある。ところがこの首謀者(黒幕)は中大兄皇子ではなく軽皇子(かるのみこ)である、皇極天皇だ、いや中臣鎌足だなどと言う諸説がある。そこで、一体誰が真の首謀者であり、何故実行したのかの事由について解明していきたい。
「大化改新」では乙巳の変の翌年646年に孝徳天皇から「改新(かいしんの)詔(みことのり)」が発せられた。ところがこの詔の信憑性を巡り論争が起きると共に、大化改新否定説が提起された。これをどのよう
に判断するのかを論ずるものである。(発表者談)
(写真)蘇我入鹿暗殺絵巻*HP・ウイキペディア(乙巳の変)から引用(多武峰縁起絵巻)
第二部 特別講演会 演題「 西洋と日本の城―比較と検証 」
講師・西野 博道 先生 (茨城大学講師)(午後3時00分~4時30分)
講義概要
「カステラ」「ハンバーグ」「シャトーワイン」…みんなもともと城郭用語です。ヨーロッパの城と日本の城の共通点と違い、その影響関係について、豊富な画像を使いながら、古代・中世・近代と時代を追って紹介します。特に、従来、日本の歴史学者、城郭研究家が指摘してこなかった両者における影響関係についての解説はご期待下さい。
略歴
・早稲田大学卒業後、同大学院修士課程修了。
・専攻は英ロマン派研究、特にスコットの歴史小説。
・高等学校教諭を経て、早稲田大学、明治大学、埼玉大学、文教大学等で講師を歴任し現職。
埼玉城郭研究会顧問。
著書
・『イギリスの古城を旅する』1995年:双葉社、2000年双葉文庫
・『関東の城址を歩く』2001年:さきたま出版会
・『日本の城郭・築城者の野望』2009年:柏書房
・『日本の城郭・名将のプライド』2009年:柏書房
・『江戸城の縄張りをめぐる』2011年:幹書房
・『埼玉の城址30選』2005年:編著・埼玉新聞社
・『続・埼玉の城址30選』2008年:編著・埼玉新聞社
・『戦略戦術兵器辞典➎ヨーロッパ城郭編』1997年:共著・学習研究社
・『スコットランド文化事典』2006年:共著・原書房
・『21世紀イギリス文化を知る事典』2009年:共著・東京書籍ほか
5月例会は延期になりました
5月の例会は3月・4月に引き続きコロナウィルスのため中止延期となります。スケジュールの変更は改めてご案内します。
4月例会のご案内11月8日(日)に延期予定
開港記念会館講堂の予定
長谷川 憲司さん 演題『 近代日本が生んだ世界的細菌学者 野口英世 の実像 』
細菌学者野口英世は戦前は修身、戦後は国語の教科書にも取り上げられており、立志伝中の科学者として、千円札にも取り上げられる程多くの日本人に愛されてきました。
英世は貧窮と左手傷害からの逆境を跳ね返し、「忍耐」、「勤勉」、「努力」、「意志の強さ」「立志」による偉人と高く評価されてきましたが、真の英世の人物像、
特に科学者としての世界的業績はその時代、更にその後においても十分に評価に耐え得るものであったのでしょうか。
後世の人々によって多くのことが云い伝えられていますが本当の英世の人物像はどうであったのか? 最後に世界的に注目を集めた「黄熱病」で命を落とすことになった医学者野口英世が残した細菌学の業績は真に国際的にどのような評価がされているのか? このような観点に立って、明治の偉人野口英世の人物像を簡潔に掘り下げてみました。(発表者談)今回が初めての発表ですが、同じく医学界に身をおく長谷川さんの発表楽しみですね。
(写真/ロックフェラー医学研究所実験室にて野口英世 41歳)
斎木 敏夫さん 演題『 宇佐八幡と八幡神 』
日本の神社数第一位は稲荷社で第二位が八幡社です。702年の戸籍台帳によると豊前の人口の9割以上が秦氏であり「秦王国」を形成していたと記載されています。秦氏一族は豊前に留まらず山背国(太秦)など各地に拡がり、様々な活躍をしました。八幡神の「八幡」は唐の軍制の象徴である「八幡・四鉾」の八幡に由来するといわれ、新羅系の渡来人の秦氏が持ち込み、それと古来の海神の宗像三女神信仰が習合し、更に隼人征服の過程で 八幡神と応神天皇が一体化し、宇佐八幡が成立しました。そして749年大仏造立のために東大寺鎮守・手向山八幡宮の神として入京しました。
781年頃朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩の号を授け、「八幡大菩薩」となりました。859年宇佐八幡宮から八幡大菩薩を男山に勧請し、翌年八幡造の社殿を造営しました。山城と摂津の国境で都の裏鬼門にあたり、王城守護の役割で勧請されました。
源義家が当社で元服したこともあって八幡太郎義家と名乗り、武神とし快慶作 東大寺として信仰され、源氏の広がりとともに鶴岡八幡宮など各地に八幡宮が勧請され、源氏の氏神となりました。これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、現在に至っています。誰でも知っている八幡神、でも詳しい由来は・・・・・これを機会に勉強しましょう!
(写真 僧形八幡神座像〈国宝〉)
高尾 隆さん 演題『 間宮林蔵は善人か悪人か 』-歴史は後世に脚色されるー
先日朝日の文化欄に、奈良時代の文人政治家吉備真備が中国の留学中に書いたという“墓誌”発見の記事があった。亡くなった唐王朝の官僚の業績等を記したもので、「日本」の文字が確認できる4例目という貴重なものであるという。しかし中国の一部の研究者から「日本人に唐の官僚の墓誌を書かせるはずがない」といった偽物説が出ているそうだ。
この感情的ともとれる反対説にあるように、歴史は向き合おうとする人間の考えによってどのような方向へも進むのである。発表させていただく間宮林蔵は「間宮海峡」を発見した世界的な探検家という称号と、シーボルトを追放した隠密という後世の評価がある。
前者は過酷な体験をしながら海峡へたどり着き、大陸へ渡るという快挙を果たし、幕府からも認められる。後者はシーボルト事件の密告者や西国諸藩の密貿易を摘発したスパイ役という汚名である。しかしこの両者が究明されたのは明治以降である。それは正しい見方なのか、歴史研究は面白いが、恐ろしいことでもある。(発表者談)
(写真/岡堰の間宮林蔵像)
3月例会のご案内 臨時休講
3月の例会は新型コロナウィルスの感染を考慮し休講といたしました。予定されていた方々の発表は5月に改めて行っていただく予定です。
令和2年3月2日(月)1時より 横浜開港記念会館
大瀬 克博さん 演題『 義和団事件の英雄・会津人柴五郎の生涯 』
高野 賢彦さん 演題『 大王(おおきみ)を支えてきた大伴氏の最期 』
清水 漠さん 演題『 赤備え 虎昌・景昌 & 直政・幸村 』
◇2月例会
令和2年2月2日(日)1時より 横浜市開港記念会館
真野 信治さん 演題『 細川藤孝 その謎の出自に迫る 』
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」は久しぶりの戦国ものとなりました。今回は、ドラマの主人公・明智光秀の盟友とも言われた細川藤孝(幽斎)を取り上げてみました。
光秀はその出自が土岐氏であるとの説がありますが、確実な史料が残されているわけではありません。実は将軍奉公衆でもあった細川藤孝も同様にその出自に問題があるとする研究成果があります。
果たして、足利一族の名門である細川氏を出自とするのか? 謎を解く鍵を握っているのは誰か? 系譜史料を踏まえながら、総合的観点からアプローチをしてみたいと思います。
また簡単ですが明智氏の系譜についてもちょっと触れてみたいと思います。(発表者談)
真野さんは日本家系図学会でも活躍されています。専門力を生かしての発表にご期待下さい。
(写真)細川藤孝(幽斎)
佐藤 猛夫さん 演題『 私の歩いた五街道 (甲州街道編)』
甲州街道は、江戸日本橋から八王子、甲府を経て信州下諏訪宿まで53里余り(約210Km)の街道です。宿場は45宿を数えますが、他の4街道に比べて規模が小さく、一つの宿では宿場の機能を十分に果たせず、隣の宿と合宿で何とか役目をこなしてきた宿もありました。
ロ)東海道の箱根路や中山道の木曽路のような華やかさのない地味な街道ですが、それぞれの街道にはそれぞれの歴史と風景があります。
八王子から甲府盆地に至るまでは山間の集落を縫うようにつなぎ、甲府から先は釜無川に沿って甲斐駒ヶ岳
や八ヶ岳を仰ぎ見ながら歩く街道です。そんな甲州街道で目にしたものや気がついたことなどをお話ししたいと思います。
この5月の一泊二日バスツアーは甲州・山梨です。事前学習として聴きたいと思います。
(写真)桂川にかかる猿橋(大月市)
堀江 洋之さん 演題『 童謡詩人・野口雨情と尊王攘夷の系譜 』
野口雨情は童謡詩人であるが次の逸話が残っている。酒席で女子供の歌しか作れないだろうとからかわれた数日後、桜田門外の変を起こした「桜田烈士を讃える」の詩を送ってきたという。
野口雨情の家は元水戸郷士であった。日頃伯父・野口勝一(県会議長)が桜田烈士を讃えていたのを知っていたからである。
雨情の生家磯原は大平洋に面し、数キロ先に大津浜があり文政7年鎖国中の日本の地に英国人船員が無断で上陸し、幕末の海防戦略が破られている。(大津浜事件)このとき水戸藩は必至で対応をした。
野口雨情の家系は茨城人名辞典によると「その祖は、楠七郎正季二世の孫正建より出る」とあり「三河国賀茂郡野口村に隠棲し、地名を以て氏となす。」とある。また雨情の姪・野口千鶴子女史によれば伯父雨情
から楠正光(楠正季の弟)の子孫であると教えられたのを覚えているとの事。
平成30年5月の横歴バスツアーで茨城の徳川光圀隠棲地「西山荘」に行きました。受付入口右側の丘の途中にあった詩碑の作者は野口勝一で、雨情の伯父とのことです。堀江さんは野口家の親戚でもあり、今回の発表が楽しみですね。(写真)野口雨情