[レポート令和元年 秋の歴史散歩]

横歴秋の散歩「海洋日本の歴史の変遷と共に歩んだ港町『浦賀』」

11月24日(日)京浜急行浦賀駅11時集合
週末は今年の天候不順を物語るかのような冷たい雨が降り続き、開催が危ぶまれた秋の歴史散歩は、日曜朝から天気が回復、傘をさすこともなく心地よい晩秋の散策になりました。
午前11時京急浦賀駅には、参加者46名が集合しました。今回の歩きの目的は浦賀と言えばペリー来航とその対応に追われた浦賀奉行所の話になりますが、実は古代から古東海道の要所でもあり、日本の海上交易の拠点としても重要な役割を果たしてきた歴史的価値の高い町をつぶさに散策することにあります。
浦賀郷土資料館で浦賀の歴史を予習
駅から徒歩10分程にある浦賀コミュニティセンター分館にある資料室。浦賀の歴史や奉行所の模型、中島三郎助が造った日本初の帆船軍艦鳳凰丸やペリー艦隊サスケハナ号の模型などの資料を見ながら学ぶ。

まずは奉行所があった西浦賀の散策

西浦賀の旧商家通りを通り浦賀のシンボル西叶神社へ。文覚上人が源氏の再興を願い石清水八幡より勧請した神社。日本中から様々な歴史上の人物が訪れ手を合わせたことでしょう。上野会員がその縁起や社の解説。引き続き隣の東福寺のガイドを行いました。ここで昼食タイム、ご住職のご厚意で本堂に入りゆっくりと食事をとりました。西叶神社も東福寺も建造物に立派な彫刻が施され、昔の浦賀の繁栄ぶりが窺われます。

浦賀奉行所跡から船番所跡へ
食後は奉行所があった跡地へ、浦賀奉行所は現在平地になっており、今後どのように活用するのか歴史的価値を彷彿させるような施設ができるのか楽しみです。波止場側に戻り、奉行所跡に引き続き佐藤会員が船番所跡で往時の番所の役割や船改めの仕組みを解説しました。

渡し船は古より近隣の村々を結んだ浦賀海道

西浦賀から東浦賀へは渡し船に乗って行きます。享保5年(1720)浦賀奉行所が開設されてまもなく、浦賀をはじめ東側は鴨井、走水、西側は久里浜などの村人が費用を負担して利用されてきました。現在も市道2073線の海道です。
船は12人乗りのため4班に分かれ乗船、先行2班を村島会員が東浦賀をガイドします。残りのメンバーは高尾会員が担当。

西浦賀は干鰯問屋で栄えた町
西浦賀は戦国時代から干鰯を扱う町として知られていました。房総や伊豆に近い良好の入江は近隣の漁村から集めた干鰯を集積し、綿花産業の盛んな関西などへ廻船するのに最適だったのです。そして早くから世に知られた良港はその後もドラマチックな歴史の舞台となります。写真は郷土資料館展示の「干鰯(ほしか)」と干鰯を金肥として使用した「綿花」。

 

ペリー来航に松陰と象山が語り合った徳田屋敷
19世紀になり、たびたび異国船が現れてくると浦賀は海防拠点の町に変貌します。ペリーが来航して来た時、その威容を見て港の宿で日本の時局を語り合ったのが吉田松陰と佐久間象山でした。その宿があった場所。
ラストサムライ-中島三郎助親子が眠る東林寺
ペリー来航時、浦賀の与力中島三郎助は自らを浦賀副奉行と詐称して大胆なサスケハナ号の探索を行ったり、浦賀で日本初の帆船軍艦を建造したり、勝海舟と共に長崎海軍操練所の一期生となり幕末の武家社会に知られる存在となる。徳川の形勢が危うくなる中、明治になっても幕臣の使命を果たすため函館戦争で息子二人と共に憤死します。その墓は浦賀の港を見下ろす寺に眠っている。

家康は浦賀からスペインとの交易を画策した
関東に移封してきた家康は、鉱山開発や西洋の造船技術の導入をはじめ海外交易を計画する。そこで目をつけたのがスペイン―メキシコ―フィリピンを結ぶスペイン商船の浦賀への寄港でした。家臣となっていた三浦按針を交渉役にすえ、難破したフィリピン総督のために按針に帆船をつくらせたりしましたが、家康の死によって立ち消えとなります。その浦賀での拠点となる場所が東浦賀に残されています。こうした史実を伝えるため叶神社社前に石碑が立っている。

浦賀水道を見下ろす山城の下に建つ東叶神社
干鰯産業が一番盛んな頃、元禄5年に東浦賀は西の叶神社を遷し祀った。元は別当として古義真言宗の修験の寺があり、裏の山は奥宮として祀られていた。山頂は中世後北条家、三崎城の出城浦賀城があり、対面の房総里見からの海防を担った。ペリー来航時も艦隊を目の当たりにしたことだろう。

 

 

干鰯で栄えた商家が残した豪華なお稲荷様
近世浦賀は全国区の交易地だったことから多くの商人がこの港で店を開いた。中には江戸時代菱垣廻船などを操り海運業に長じていた紀州の商人も多くいました。その一つが湯浅屋でした。湯浅屋は京や江戸にも大問屋を構える一族で浦賀でも明治期まで繁栄しました。その栄華を物語る神社が東耀稲荷です。小さな社に残された装飾は時代を彷彿させます。

散策を終えて
港をぐるり回っても4キロほどの小さな町ですが、地勢的にみると江戸の入口であり、東西まわりの海路の結合点でもある実に好条件の港といえます。近世までは小回りの利く船で賄ってきた海運には、大きさ的にも最適だったと思われます。家康の夢や、海上交易の発展、幕末海防の流れの中で、三郎助が日本初の帆船軍艦を造った造船所のある重要な場所だったものの、港は船の大型化、高速化等の進化に徐々に必要とされなくなった。歴史はこうしたはかなさを伴うものだが、多くの歴史人が港の向こうの大海原を想いをはせ佇んだのかと思うと愛しくなる町である。(高尾)

浦賀散歩カラーガイドブック⇒浦賀ガイドブック