4月8日(土)午前中は青空でしたが帰る頃は雨が降っていました。そんな中、例会参加者は80名(会員78名、ゲスト2名)と順調に開催されました。また、懇親会会場は新しい場所で行われ、30名ほどの参加者で和気あいあいと楽しく行われました。
司会 上野事務局長・副会長
コロナもだいぶ落ち着いてきたようですがまた、増えそうな気配もあります。例会時でのマスク着用についてのお願いです。会場である関内ホールは国の指針と同じで皆さんにお任せします。発表会中は外しても構わないと思いますが、休憩中に会話を交わされる場合はマスク着用の方が良いと思います。
会長挨拶
熊本会長
マスク着用については自主判断という事でお願いします。手洗いうがいは是非行うように私自身も家族から言われていて、最近は鼻うがいもしています。花粉症対策にもなります。コロナについては十分気を付けて下さい。4月23日に歴史散歩が行われます。外歩きにはいい気候で初夏の花も牡丹園や龍華寺等にたくさん見られるので是非参加してください。5月のバスツアーはまだ定員に達していません。佐藤幹事の尽力で旅行支援が受けられることになり、参加費は5千円安く、長野市内で使えるクーポンも2千円付きます。ただしコロナワクチン3回以上接種の方(接種証明要)か3日以内のPCR検査の陰性証明が必要です。長い階段や坂道も無いので歩行に自信がなくても大丈夫です!申し込み締め切りは4月15日までになりました。定員もまだ十分余裕があるのでご家族友人知人を誘って是非ご参加ください。
春のイベント開催
春の歴史散歩 「称名寺・金沢文庫から旧伊藤博文別邸・金沢東照宮跡地まで」
開催日 4月23日(日)
集合場所・時間 金沢文庫駅改札 10時
参加費 1000円
※65歳以上の方は入場団体割引を利用しますので年齢の証明ができるものをご持参ください。
※各人飲み物・お弁当・敷物等をご用意いただくようお願いいたします。
〈予定コース〉金沢文庫駅(集合)10:00-県立金沢文庫-称名寺-薬王寺-金沢八幡神社-龍華寺-旧伊藤博文金沢別邸-明治憲法草創の碑-琵琶島神社-瀬戸神社-金沢東照宮跡-金沢八景駅(解散)
*金沢文庫では文庫学芸員による「称名寺・金沢文庫の由来・特色と特別展の見どころ」の解説を受講します。特別展「金沢文庫の肖像」鑑賞
ご不明な点は担当幹事まで
竹内章二 090-3240-2613)上野隆千 090-5543-0869
高田茂 090-5529-0566 丸山雅子 070-5577-6651
★決行・中止の決定は当日午前7時にHPに掲載いたします。
歴史研修旅行「新緑の甲州路に武田三代ゆかりの地を訪ねる」
実施日 5月15日(月)~16日(火) 募集人員 45名
申し込み締め切り 4月15日(土)
参加費 3万円(クーポン2千円あり)
旅程 〈15日〉横浜駅東口-釈迦堂遺跡博物館-信玄館(昼食)・恵林寺-武田神社・信玄ミュージアム-信玄堤-上諏訪温泉(泊)
〈16日〉諏訪大社・下社秋宮-高島城跡-諏訪大社・上社本宮-昼食-大善寺-景徳院-横浜駅
今回の歴史研修旅行は政府の旅行支援金対象となりましたので、参加費が三万五千円から➡三万円となりました。さらに長野市内で使用できるクーポンが2千円付きます。まだ、定員に達していないので4月15日(土)迄申し込み締め切りが延長されました。この機会に是非多くの方にご参加いただきたいと思います。バスの中では見学予定地の解説もあります。また、お楽しみ会も企画されています。大いに学び大いに楽しみましょう。
◎4月例会発表のポイント
◆今月の研究発表は専門分野を活かした発表となりました。
武田 収功氏 演題「飛鳥の風土がもたらしたものー飛鳥の呪術と幻覚性植物-」
飛鳥の地には特異と思われる遺跡が多く残っている。皇極・斉明天皇の「狂心渠」もその一つである。前回は「水銀の道」の経路について地理的に見た発表をして頂いたが、今回は奈良湖や湿地であった飛鳥の地の風土がもたらせたものについての解明である。奈良に頻繁に訪れている武田氏は化学がご専門分野だが地理学や・宗教・呪術をはじめ、古事記・日本書記・本草書物あるいは小説、新聞と多岐にわたる資料から情報を集め研究されている。水銀を不老不死の仙薬として使い続けた中国の皇帝たち。飛鳥では枯渇という事もあったろうが、水銀に変わる仙薬として薬草に切り替えたのは中毒性が明らかになったからではないのだろうか。大仏の金箔を造る作業の際に水銀から出る毒の為、多くの命が失われている。風土調査や地形から突き詰めていく、奈良に通われている武田氏ならではの発表となった。飛鳥にはまだ未発見のものが多く残されていると思われる。新しい発見にわくわくできるのが歴史研究の醍醐味といえる。
長谷川 憲司氏 演題・・「細菌学・公衆衛生学の先駆者「北里柴三郎」の信念」
何事も偉大な人、先駆者となる人は信念を貫くことの出来る人である。ここでの信念とは北里の「日本のために」という事である。「日本人の命を支える杖でありたい」という言葉を残している北里柴三郎。幼少の頃より親元を離れ、いわゆるスパルタ教育を受けた後、彼は恩師であり医師のオランダ人マンスフェルトの影響で医師を目指して上京する。努力を重ね、やがてドイツに留学して世界で認められる研究成果を上げるが、それを認めなかったのがなんと彼が大切に思う日本であった。先輩で恩人である緒方正規の発表した脚気菌の論文に反論した北里を東大医学部が「忘恩の輩」と断定することから確執が生まれ、これが生涯続く。赤痢やペスト菌の研究でも緒方と北里は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かった。しかし、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている。ドイツ留学から帰国後、身の置き所のない北里は福沢諭吉や森村市左衛門の支援で私立の伝染病研究所を設立し、多くの弟子を指導して優秀な門下生を輩出した。優秀でも排除しようとする者があれば、公然と認め支援する者がいる。この違いはどこから来るのであろう。これを象牙の塔と呼ぶのか?純粋に成果を認められる研究社会であって欲しい。
佐藤 猛夫氏 演題「私の歩いた五街道(日光・奥州街道)」
五街道・JR全線制覇の佐藤氏、中山道、甲州街道に続き、体験道中記の今回は日光・奥州街道の巻である。スクリーンに映し出される氏の撮影した写真を見ていると、自分がそこを歩いているような気分に浸れるから不思議である。日本橋から宇都宮経由で鉢石まで142キロ(日光街道)、宇都宮から白川まで83キロ(奥州街道後半)、およそ一日20キロの行程は、芭蕉も歩んだ奥の細道もたどる。旅の始まりは昨年秋の歴史散歩で見学した小塚原刑場跡の延命寺・回向院を通り過ぎる。氏いわく日光街道の前半は戦後すぐ甚大な被害をもたらしたキャサリン台風の荒川・利根川の決壊による洪水の為、史跡などはほとんど何も残っていないという。坂東太郎の難所を通って宇都宮までは100キロくらい。ここまでは日光・奥州街道共通である。宇都宮の追分から白川までが奥州街道となる。将軍の日光参拝は就任といった節目の時のみで、御成街道を通り幸手から日光街道に合流する。古河では古河城下町の面影はない。街道を歩いて杉並木の上に砲弾の跡が残っているのを発見、東照宮前で日光の方角を向いて板垣退助の像が怖い顔をして、宮に籠る賊軍を睨みつけている。(高村光雲の弟子でもあった土佐の本山白雲作)なるほど歩きながら街道旅だけでなく江戸時代から明治維新に至るまで歴史の時代旅も味わえるとは。一石二鳥、いや健康増進にもなるので一石三鳥か。