横歴 編集室

新・編集室のつぶやき 6

 2024.11.01
87号原稿締切とページ数
 87号の原稿募集は、9月末で締め切りました。投稿いただいた多くの方々、ありがとうございました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 レイアウト検討の結果、最終的に96ページとなる。通常号としては過去最大となった。これまで通常号では、81号(2020年)の88ページが最大であった。なお記念号では、35周年記念号の101ページが最大である。
 8月末頃の予測では、最小で80ページ、最大なら100ページ程度であり、予測範囲内、上限に近い数字となった。この時の予測範囲を超えて、100ページ大幅超になったら、締め切り内であっても、お断り(次号に回っていただく)することも考えなければいけないと危惧していたのだが、大丈夫であった。
 ページ数があまりに増えた場合、何が問題かと言うと、二つある。一つは、あまりに分厚い冊子は読む気が起こりにくくなる点である。想像してみたらいいだろう。電話帳のような(もう過去の話で分からない方もいるか)会報、手に取るだけでも大変だ。
 もう一つは、費用である。現状のネット印刷では、ページ数は、基本的に費用に対して直接的に影響する。単純に比例するのである。ページ数が2倍になれば、費用も2倍になる。予算内に納まらなく可能性も大きくなる。今回の96ページであれば、予算内で済むので、問題はない。(分かりにくいのだが、実は印刷部数は、費用にはあまり影響がない。)
 ところで、今回の96ページだが、内訳を示すと以下である。
  特集記事 33ページ
  通常記事 63ページ
  合計   96ページ
 要するに特集を除けば、前号、あるいはここ数年の会報のページ数と全く同じである。もし、このような状態が安定して続くなら、それはそれで予測ができ、良いことであると考えることもできる。でも本当にそれでいいのだろうか。
以上

新・編集室つぶやき5

 2024.10.01
新コンテンツ
 会報として見た目は変えない。しかし、新しい試みはいくつか始めたいということで、86号から2つの記事を始めた。新人の自己紹介と、お勧め本紹介である。
 新しい試みと書いたが、新人紹介は、実はまったく初めてというものではない。会報創刊以来、いつごろまでか、ずっと新人の紹介は行われて来た。いつやめたのかは定かではないが、とにかくずっとすべての方の紹介は行われて来た。ただし、紹介された内容は、名前と興味分野のほかは、なんと住所、電話番号である。個人情報保護がうるさく言われかった時代とはいえ、わずか30~40年前、ちょっと新鮮とさえいえる。まさか紹介を止めたのが、個人情報保護の観点からではないだろう。復活させた目的は二つある。一つは、やはり単純に、新人の紹介は必要である、ということ。さらに、新人自身に、わずか一段分とはいえ、会報に文章を寄稿する経験をし、少しでも慣れ、その後の一般記事寄稿のための練習をしていただくためである。会報寄稿者の広がりにつながっていけばよいと考える。なお、新人への依頼文書には、メールアドレスと写真を、入れてもいいし、入れなくてもいいこととしている。86号では、一人を除いて両方カットされていたので、メールアドレスを原稿に含まれていた一人にも確認して、最終的には削除した。今回は、いろいろバラエティのある形になったので、寄稿された形そのままにする予定である。御期待頂きたい。なお、関係ない話をすると、一般の研究やエッセイでも末尾にメールアドレスを入れてもいいのにと考えている。質問したいことなどがあれば、メールであれば気軽にできるであろう。ただ、最初にそれを載せるのは勇気がいるかもしれない。筆者の寄稿分から始めてみてもいいかもしれない。
 二番目は、お勧め本紹介である。歴史に関する本なら、小説でも、評論でも、エッセイでも、あるいは漫画でもなんでもいい。ぜひ、皆さんが読んで、これは他の方にもお勧めしたいという本を紹介していただきたい。会員の皆さんは歴史に関する本をどれくらい読んでいるだろうか。読んだ本の何分の一かは詰まらない、役に立たないという本もあるだろうが、逆に何分の一かは面白かった、役に立った、そして誰かに勧めたいという本があるであろう。筆者の場合もそうであり、年間でいえば、10冊くらいは、他の方に紹介したいというレベルの本がある。そういうものを皆さん、是非紹介してください。歴史研究会の会員が紹介する歴史本であれば、非常に面白い本がでてくるのではないか。ちなみに、86号の紹介本は、全4冊(シリーズこみ)で、筆者は全部未読であったが、そのうちの1冊は早速購入、読み終えた。素晴らしい一冊であった。ぜひ継続していきたいコーナーである。
ちなみにこのコーナーのアイデアは、筆者ではなく、他の編集委員からの提案。皆さんからもぜひ、こんなコンテンツを始めたらどうかという提案があれば、いただきたいと思います。よろしく願いします。

新・編集室つぶやき4

 2024.09.01
会報形式の利用
 会報の記事を執筆する際の書式を、86号から変更し(A4→B5)、ホームページに公開した。86号での投稿記事における利用率は、以前から公表しているように、研究・エッセイ12記事に対し、以下であった。
7/12 58%
初回の適用率としては、非常に高率で、驚きであった。今回どうなるであろうか。
 もっと前に書くべきであったが、今回、この書式を利用する効用について記す。
 なお、記事の執筆のスタイルとしては、以下の3つがある。
1. 任意のスタイルで執筆し、編集者に形式変換を任せる。
2. 任意のスタイルで大筋執筆したあと、自分で形式変換する。
3. 最初から会報書式を利用して、執筆する。
 当方としては1のスタイルでも問題はなく、受け付けるのであるが、2あるいは3の方が、執筆者自身にとってメリットがあるのではないか、ということである。なお、2か3かということについては、まったく問わないし、人それぞれの好みあるともいえるが、筆者が執筆者の場合、一度だけ2のスタイルで書いたが、面倒になってすぐに3のスタイルとなった。その方が普通と思うがどうだろうか。
 さて、書式利用の効用だが、下記が考えられる。
-容量制限を意識できる
-きっちりページサイズに調整できる
-図・写真などの利用とその補足説明を意識できる
-縦書きでの使えない文字などが自然に分かる
 それぞれ、説明する。
a.容量制限を意識できる
任意のスタイルで執筆する場合、文字数制限を全体で意識して合わせたとしても、会報書式に変換した場合、どうしても改行のため、容量制限を越えることが多くなる。筆者も、実は、4年前、会報へ初めてだした記事について、全体の文字数制限を意識したものの、A4横のwordのディフォルトの形式で利用し投稿した。すると、前々編集長の山本さんから、以前の形式に変換したデータとともに、「こんなにオーバーしているぞ、削除しなさい」というメールが送られて来た。その後、推敲し直して文を削除して投稿しなおしたものである。最初から会報形式を利用しておけば、このようなミスは当然なくなる。
b.きっちりページサイズに調整できる
aと同じような話ではあるが、4ページという制限を超える場合だけではない。3ページにほんの少しはみ出た場合、大きな空白ができることになる。この場合、文章を見直して、3ページ丁度に収まるようにする、あるいは、逆に文章や写真を追加して4ページにちょうど収まるようにする、ということができる。
4ページ丁度まで、あと2行残っている、などということもある。こんな場合、ちょっと書き足りないところに、文章を追加するなどということもできる。容量制限は有効に使いたいものである。
c.図・写真などの利用とその補足説明を意識できる
本文の説明している文章との直接の関わり度合い次第ではあるが、直接説明している図や表などの場合、その位置は、近くの適切な位置に置かなければならない。その位置を一番よく分かっているのは執筆者である。それを自分で調整しながら、適切な位置におくことができる。
d.縦書きでの使えない文字などが自然に分かる
 縦書きでは使えない文字がある。使えないというのは、使うと、とても読めない、あるいはみっともない、というものである。記号やあるいは数字の表現についてある。いちいちここでは列挙しないが、自分でそれを入力した時、その場で、「あ、これはダメだ」と自分で分かり、別の文字に変えることができる。
 以上であるが、とにかく、使ってみることである。頭で考えると、「とてもやれない。やりにくそう」などと思うのだが、やってみると、これが意外に簡単であり、けっこう、気持ちいいのである。
以上

新・編集室つぶやき3

 2024.08.05
掲載順番
 記事の掲載順番について記しておきたい。
 全体として、特集があれば特集が一番先で、その後、研究、エッセイ、会員の広場と並べる。これについては、従来からと基本的に同様である。
 問題は、研究や、エッセイの中の各記事の並べ方である。執筆者や読者の中には、気にしている人もあれば、全く気にしていない人もいるかもしれない。これについて、以前、編集長にどう並べているのか、聞いたことはあるのだが、「総合的判断による」としか教えてもらえなかった。ようするに編集長の権限であり、逆に言えば「悩みの種」でもある。
 で、今回どうしたかというと、悩んだ末に、単純に「①投稿順」とした。編集者としては、早く投稿していただければ、嬉しい。それに対する感謝の気持ちということでもある。
 ところがそれだけでは、どうにもレイアウト上、望ましくない事態が発生する。奇数ページと偶数ページの問題である。たとえば、2ページの記事であれば、見開きに設定される方が読みやすい。そうではなく、表と裏に分かれてしまうと、読みにくいのである。そこをコピーしたい場合にもやりにくい。もっとも、その部分だけを切って保存したいなどと言う場合は、その方がいい、などと言うこともありうるが、稀なケースであろう。
 たとえば、投稿順に並べると、以下の記事があったとする。A等は記事の名前、その後ろのカッコ内の数字はページ数である。なお、前提として最初の記事は、右ページから始めるように設定するものとする。実際、会報では「巻頭言」を最初に設定するため、最初の記事は右ページから始まる。
  実際の投稿順 A(4)、B(3)、C(2)、D(2)、E(3)
 これをそのまま並べると、C,Dの記事は見開きではなく、表・裏になってしまう。これを避けるために、Bの記事を、次の最初の奇数ページの記事、Eの前に移す。
  掲載順  A(4)、C(2)、D(2)、B(3)、E(3)
 こうすれば、C、Dの記事は見開きで読むことができる。すなわち、下記の第二のルールを設定したということである。
②奇数ページの記事は、次の奇数ページの記事の前へ移す。奇数ページの記事が一つだけなら最後に。
 今回、このように①②の二つのルールだけで、掲載順を決定した。問題なければ、今後も、この並べ方を続けるつもりである。
 さて、なんでこんなことを公開するのかと言えば、当然、逆に読んでもらえばよく、以下を言いたいから、いうことである。
① →投稿はできるだけ早くお願いします。
② →記事は、できれば、偶数ページにしましょう。

「私の記事はあんまり前に、置いて欲しくない」、なんていう方がいると、逆効果になってしまうのだが、どうだろうか。
以上

新・編集室のつぶやき その2 

2024.07.04
 第二回目として、会報開発のプロセスの変革のうち、執筆者には見えない部分について、記す。
 これについては、一般の方には関係ないのだが、なぜ説明するかというと、編集委員がどのように活動しているか知っていただき、これならいっしょにやってやろうと編集活動を手助けいただいたり、もっとこうやったらいいのでは、などと改善提案をいただきたい、ためである。また、少し気が早いかもしれないが、編集長や編集委員の交代のための引継ぎ事項の意味もある。「こんなことをやっているのなら簡単だ」、あるいは、「私がやればもっと簡単だ、やりましょう」、などという人が現れることを期待している。
 主に、次の3つを行った。
-オンライン会議ツールzoomの活用
-共通ライブラリとしてクラウドgoogleドライブの活用
-wordの校正機能の活用
(1)オンライン会議ツールzoomの活用
 いっしょに作業する以上、頻繁な打ち合わせ(コミュニケーション)は重要である。しかし、都度、集まるのは効率が悪い。このため、無料で使用できるzoomを活用した。筆者は、利用経験は多いが、主催経験はなかった。他の二人の編集委員は使用したことがないとのことであったが、ほぼ問題なく、私が主催し、実行することはできた。ただ、無料使用は30分(実際は40分)までなので、さすがに30分では終われず、いったん15分程度休憩し、その後、もう1回30分打ち合わせすることで、対応した。例会で顔を合わせることができることもあり、別途顔を合わせての打ち合わせは不要であった。当初、23年12月に初回、オフライン(顔合わせ)での打ち合わせを行い、その後は3月、6月と3か月毎にオフラインでの打ち合わせをする予定としたが、3月は省略し、オンラインでの打ち合わせに切り替えた。例会時の合間に、顔合わせての短時間での打ち合わせもできるので、まったく問題なく、活動を進めることができた。
完成後、6月に2度目の顔合わせ会(反省会&次期向け企画会議)、そして、発刊祝い(飲み会)を行った。
(2)共通ライブラリとしてクラウドの活用
 集まって来る記事(データ)はかなり多く、頻繁に更新も行われる。メールの添付資料としてやりとりし、個人でデータ管理をすればやれないことはないが、手間はかかるし、重複作業として無駄である。このために、編集委員間で共通に使えるライブラリとして、googleドライブを採用し、活用した。無料で15GBまで使えるので、容量的にはまったく問題ない。
 ただ、アップロード・ダウンロードが必要で多少、操作が面倒である。また直接の更新をしようとしてしまうと、google docsが動いてしまい、文書を壊してしまうという問題がある。最初は他の編集委員もとまどったようだが、すぐに慣れて、問題なくなった。
 なお、直接更新できるようにするツールがあり、それをダウンロードして利用することもできるのだが、複数人の作業が重なることはできないなどの制限があり、今一つ、使い勝手はよくないという問題はある。このあたり、もっと複数人での作業ツールが改善されてくればいいのではと考える。
(3)wordの校正機能の活用
 wordの「校閲」機能はいろいろあるのだが、そのうち、編集委員間で共通に使うことにしたのは、「変更履歴の記録」である。この機能により、word上でただ更新さえすれば、紙に赤入れしたのとほぼ同じ効果が得られる。さらにその先、「承認」「拒否」などの機能もあるのだが、今回はこれは使用していない。3人がバラバラに(並行して)、同じ文書を更新し、筆者はそれを併せる際、他の二人の校正結果を見ながら、筆者の校正に追加していく形としたためである。3人が順番に校正していく際には必要となる機能で、筆者は別の本を作成する際に、利用した時もあるのだが、好みの問題もある。このあたりも今後の改善・検討が必要なところであろう。
 いろいろと書いた。御意見をいただければ幸いである。
以上

新・編集室のつぶやき その1 

 2024.06.04
 編集後記を書くのは、原稿が終結した直後くらい、発刊まではまだだいぶ時間がある時期で、結果がどうなるか分からず、書ける内容には限りがある。また、1年に2回、1ページ程度の量でしかない。そこで、編集者として考えていることを、この場所を利用して、月に1回くらいの割合で発信していきたいと思う。よろしくお付き合いください。
 第一回目として、今回の会報開発方針と、開発プロセスの変革について記す。

会報開発方針とプロセスの変革
 5月下旬、プリントパック社より、会報86号400部が送られて来た。さっそく梱包を開けて、大きな問題はないことを確認した。ふっーと、一息。初めての会報発刊作業が無事終了した。まだ配布・発送、清算、反省会などが残っているとはいえ、実務としては終了と言っていいだろう。
 ここで今回の作業を振り返ってみたい。
 会報の発行を引き受けるにあたって、大きくは二つの方針をたてた。
  方針1.会報の見た目を一切、変更しない
  方針2.開発プロセスの改善

1.会報の見た目を一切、変更しない
 読者から見て、全く違和感がないようにしたい。本文の形式については、編集後記に少し書いたが、それだけではなく、挿絵についても引き続きお願いした。本文だけでなく、表紙周りも、一切変更しないようにした。出来上がったものだけ見れば、編集委員体制が全く変わったことは分からないぐらいだと思うのだが、どうだろうか。
 次の開発プロセスの変革であるが、会報の出来栄えを変えてしまうのでは、何でもできてしまう。自由度がありすぎて、どこまでどうするか、考えにくくなるという面もある。そこで、まずは今回は、出来栄えは維持したままで、そこに足かせをかけたうえで、どこまで改善できるかをやってみたい。次のフェーズで、将来(?)、会報の見かけを含めた変更を考えたい。

2.開発プロセスの徹底改善
 この目的は、品質の改善と、作業量の削減である。
 開発プロセスの改善は、読者にはまったく関係ない話ではあるが、執筆者には見える部分と、執筆者には見えず、まったく編集委員内部の部分とがある。今回は、執筆者にも関係ある部分について説明する。
 大きくは三つある。
(1)形式の変更
 もっとも大きな点は、従来、執筆・校正フェーズで使われていた「A4型会報形式」を廃止し、最終形式と同じ「B5型会報形式」へ変更したことである。
 従来、執筆者は、自由な形式で投稿するか、A4型会報形式のどちらかで投稿していた。(この割合は不明である)。自由形式なら、編集委員が、A4型会報形式へ変換し、その後、校正を行う。次に、製作者が、全体を統合し、さらにA4型会報形式を実際の会報のB5に変更していた。このプロセスでは、単に全体のサイズを変えるだけなので、問題はそれほど出ないはずと考えがちであるが、実はそうではなく、写真や、表題欄などの大きさの関係があり、基本的にレイアウトし直しになる。このため、実はほとんど校正を一からやり直すぐらいの作業が必要になる。これが原因となって、作業量が大きくなり、誤植につながっていた。整理し、細かい部分は省略して記すと、従来の手順は以下と言っていい。
<従来の手順>
② 執筆者:自由形式かA4型会報形式で投稿
②編集者:自由形式の場合、A4型会報形式に変換
③編集者:校正
④製作者:統合
⑤製作者:B5会報形式に変換
⑥編集者:二度目の校正
⑦印刷・製本
 今回、投稿形式をB5型会報形式に変更し、上記⑤A4型からB5型への変換自体をなくした。自然に⑥二度目の校正も不要になる。これにより作業量も削減し、品質も改善できるはずである。整理すると、以下である。
<今回の手順>
①’執筆者:自由形式かB5型会報形式で投稿
②’編集者:自由形式の場合、B5型会報形式に変換
③編集者:校正
④編集者:統合
⑦印刷・製本
 結果から見て、成功したといえ。おそらく正誤表は不要であろう。レイアウトレベルのミスはゼロではなさそうだが、劇的に改善されたと考える。また副産物としてコストも改善できた。
(2)書式の公開
 このB5型会報形式を、「会報書式」としてホームページ上で公開した。初回、どの程度、この書式を使用していただけるか、注目していた。結果は、研究・エッセイは投稿12本に対し、そのうち適用されていたのは7本であった。
  7/12 58%
 適用しようとして、失敗されていたのが、2本あったので、9/12の75%と言えなくもない。驚異の高率である。まあ、今後、この数字は高くなっていってもらえればいいので、今回初回の適用率としては58%ということにしておく。
 なお、執筆者にとって、初めからB5会報形式を使用して執筆することに、どのようなメリットがあるかについては、項目を改めて、別途丁寧に説明したい。
(3)投稿宛先の変更
 執筆者に見える変更として、小さなものではあるが、投稿宛先について、二つの変更を行った。
a.編集長の個人住所・電話番号の削除
b.メールアドレスを個人アドレスからメーリングリストへ変更
aは、「手書きでの投稿はほぼなくなってきた、この1年は全くなし」と聞いたので、実施した。もう「手書き・faxは受付けません」という意味である。むろん、どうしてもという要望があれば、個別に受け付けることは考慮する覚悟はあったのだが、そのような声は聴かれなかった。問題なかったようである。
個人情報を会報に載せたくないという意味ももちろんある。もっとも、ここに載せたことが原因でのトラブルは過去なかったとのことではある。
 bは、投稿が筆者の個人メールの中に紛れてしまうことを回避するためと、複数の編集委員が、同時に投稿を受け取れるようにするためである。基本的にはこれも成功したと考えている。ただし、当方からの「受領確認」メールの不達がお二人の方にあったことがあとから判明した。当方からの発信モレかと調べたところ、当方の発信簿上は、間違いなく、発信していることを確認した。本件は原因不明であり、今後、注意していきたい。投稿された方は、投稿後、当方から確認メールが到着しなければ、催促等を当方に送っていただければ、幸いである。
 以上、執筆者に見える部分の変更について記した。執筆者には見えない部分については、次回以降記したい。

編集室のつぶやき その4。

9)二律背反
近年、会報誌出版経費の赤字が続いています。平成30年度(2018)は会報76号と77号を出版しましたが、当初予算60万円に対し約20万円の赤字で、続く令和元年度(78、79号)は予算を70万円に増額していただいたが約10万円の赤字となってしまいました。つまり会報誌出版に年間約80万円かかっています。当会の会報誌の出版を30年以上にわたってお世話になっている牛尾印刷さんに相談すると「この何年も値上げはしていません。費用の増加はあくまでも印刷頁が増えたことによるものです」とのことでした。すなわち近年、投稿される方が増加して、印刷頁は76+77号で150頁、78+79号は146頁になっています。現在約160名の会員の年会費は1人4,000円なので年会費収入は全体で(160×4,000で)64万円ですから、会報誌の経費が年会費で賄えていないのであります。従って、不足分は例会参加費(毎月1人1、000円)で補填せざるを得ない状態であります。
編集者のおおきな役割は「できるだけ多くの会員から原稿を集めること」「出版費用を予算内に収める予算管理をすること」であると認識していますが、この二点はどちらも正しいが相反する、即ち「二律背反」の関係にあるのです。このことを76+77号の経費が確定した2018年の12月例会時に出席された皆さんに、「この二律背反にどのように対処するか、この後の懇親会で皆さんのご意見を伺いたい」と提案しました。
結論は「予算はあまり気にしないで会報誌の充実を目指そう」という雰囲気で懇親会がこの話題でおおいに盛り上がった記憶があります。
翌年の令和元年度(78、79号)は編集担当としては、前年度の反省もあり、「投稿の強引な勧誘をしない」で様子見をしました。しかし、結果は前述のように150頁(76+77号)が146頁(78+79号)となった程度で出版経費はほとんど減少しませんでした。しかし、積極的な投稿者が多いということは、素晴らしいことで、「横歴研のレベルの高さを示す誇れる研究会」であるということを改めて実感した次第であります。

10)会報費出版対策検討会議
いかにして出版費用を安くするかを目的に「会報費出版対策検討会議」なる検討委員会を立ち上げました。メンバーはK会長、T広報担当氏、K会計担当氏と3人の編集委員の計6人です。様々な案が出されましたが、結論は「もっと安い印刷屋を探す」でした。当然な結論ですが、この方向で横歴の会報誌を維持、発展させていこうという意思表明でもありました。検討会メンバーのT氏から「印刷業界はネット印刷の時代に移行している」「知り合いの業者を紹介してもよい」とのご提案があり、早速(令和元年10月)、千葉駅近くのユーコン社という会社を訪問し、Y社長に面談しました。大きなビルの3階の大部分を占めるスペースにそれぞれのデスクトップパソコンに数名の若い女性が忙しそうに向き合っている活気あふれる雰囲気の職場でした。この会社は海外旅行のパンフレットのデザインを主に取り扱う会社だそうで全てネットで注文を受けて、印刷は京都に本社があるプリントパック社にネット発注するそうで、横歴の会報誌もこのシステムに乗るのが最も安上がりであると教えていただきました。大雑把な見積もりでは従来の牛尾印刷さんへの支払いより3~4割ほど安上がりですむようです。そして投稿原稿をメール送信し、途中の校正作業もメールでやりとりし、途中の面談は一切しないとのことです。
デジカメの登場で街角の写真屋さんが消えていき、ネットの普及で小さな本屋さんが消えていますが、牛尾印刷さんのような風情ある下町印刷屋さんも今後の先行きは危ないものがあるとつくづく実感がわいてきました。
またこの会議で「会報誌のサイズ、フォームの変更」についても議論を重ねました。会員さんから「横書きにするべきである」「大きさはA4サイズがいい」等々の意見が出されていたことも背景にあります。結論は当会に寄贈された他団体の会報誌などと比較検討した結果、当会の「B5縦書き4段」は1頁に入る最大文字数が1800字と最大クラスであることが決め手の1つとなり、「サイズ、フォームは変更しない」という結論に至りました。

11)牛尾印刷さんとの別れ
令和元年10月(ユーコン社を訪問したころ)には79号の発刊に向けて牛尾印刷さんと作業を開始していました。従って印刷屋さんを変更しようという我々の悪だくみは内緒のまま、無事に79号を令和元年12月に発刊、翌1月の新年会も無事終了したのをみとどけて、2月2日開催の当会役員会で前述の「会報費出版対策検討会議」の内容を提案したところ、役員会のご承認が得られましたので、早速、牛尾印刷さんをK会長と訪問しました。その当時は横浜港に3700人も乗船しているダイヤモンド・プリンセス号が入港したころで、世の中が新型コロナで騒然とし始めていたころです。
横歴の発足以来、30数年間にわたってお世話になった牛尾印刷さんに決別を告げるわけですから、会長と私にとっては少々重たい気持ちを抱きながらの訪問でした。事前の打ち合わせは以下の二点のみでした。「出版費用の負担が大きくなりすぎたのでもっと安価に作成する方法に変えるということを牛尾印刷さんに告げる」「手土産に心づくしの和菓子を用意する」。そして前者担当は会長、後者担当は私という分担にしてそれなりの緊張感を抱きつつの訪問でした。牛尾さんには事前に用件は全く言わず「会長と二人で行きます」とだけ伝えただけでした。牛尾さんの奧さんと会長とのやり取りは、オレオレ詐欺の被害者と被疑者のような雰囲気をも感じました(全く表現が悪く恐縮です)。お人よしでまじめな老人と弁舌爽やかな会長とさらに時には被害者の味方のような気持ちを抱く自分がいて三者には絶妙な間合いが感じ取られました。最後に30年以上に渡るお付き合いに感謝を込めて、「御礼 横浜歴史研究会」ののし紙をつけた、虎屋の羊羹(2本)を置いて二度と訪問しないであろうとの気持ちを抱きつつ、牛尾印刷さんを後にしました。会長とは「自分たちは悪いことはしていない。あくまでも会員さんのためなんだ」とか言いながら別れました。2月上旬でしたが、この日は本格的な春の到来か?と勘違いするような麗らかな暖かい日ざしがあり、言いようのない気鬱が和らぐような一日でした。

12)80号の発刊
80号の原稿募集締め切り日は令和2年3月末でした。コロナ騒動で3月例会が中止になってしまったこともあり、原稿の集まり具合が心配でしたが、期待どおりの集まり方で胸をなでおろしました。4月上旬、投稿原稿の整理がほぼ出来たころ、あらたに会報誌の制作をお願いすることになっているユーコン社を紹介してくださったT氏から驚愕の連絡がありました。「海外旅行パンフレットの制作を主な業務にしているユーコン社がコロナ騒動で仕事がゼロとなり、従業員を全員解雇した。会報誌の出版はどうなるかわからない」ということでした。「驚天動地・茫然自失」「いまさら牛尾印刷さんに頼むのも難しい」と思いつつ、困り果てた時間を過ごしました。しばらく後、T氏から再度連絡があり、「ユーコン社のY社長も全く仕事がなくなってしまったのでY社長自らテレワークでやってくれるとのことです」。胸なでおろす展開となった次第であります。Y社長の仕事ぶりは素早く、手際のよい、プロワザの連発で、80号は予定より早い完成となりました。感心したことを詳細に述べることは省略いたしますが、今回、身をもって経験したのですが、テレワークは、マイペースで業務がこなせるが、一方、相手が必要です。今回の場合はY社長とT氏と私ども(編集者)とのメールのやり取りで成り立ったわけです。従ってY社長はもとより、T氏も私たちも校了まではけっこう慌ただしく過ごさせて頂きました。コロナ騒動で外出自粛期間をおかげさまで退屈することはありませんでした。
新装なった80号、会員の皆様にご満足いただける仕上がりになったかどうか不安
もありますが、編集者としては思い入れの多い会報誌となりました。また、T広報担当
氏のご尽力は多大であり、特にT氏作成のカラー表紙は会報誌の見栄えを極めて立派にし、誌面もより格調の高いものにしていただいたと深く感謝いたしております。
令和2年5月10日

編集室のつぶやき その3。

この「つぶやき欄」へ最後に投稿したのは昨年(平成30年)6月なのでもう1年以上前であり、改元もあり、随分と経ってしまった感がありますが、自分としては前回つぶやいてからそんなに時間が経っていないと認識しております。年と共に徐々に時間経過が早くなるようです。起床してから水を飲み、着替えて洗顔し、腰のストレッチ、朝食、朝刊チェックなどをすると、アット言う間に2時間程度が経っていて、なんだかんだするうちに一日が終わっていることが多く、若い頃より時間経過が早いと感じております。それは一つ一つの動作が徐々に遅くなってきていることによるものでしょうか。若いころは町を歩いている他人をスイスイと追い抜いていた記憶があるのに、今は全く逆で、しかも昔と違って追い抜かれてもまったく悔しい気持ちになれない自分がいます。物事への感性も衰えてきているのか、「つぶやき欄」への記載もサボりがちになっておりました。以上、サボリの言い訳です。

7)会報投稿原稿の変化
会報への投稿は電子媒体でも手書きでもどちらも受け付けることになっていますが、最近はワード文書を電子メール添付で送付してくださる会員が非常に増え、投稿原稿をパソコンに再入力する機会が減り、それに伴う入力ミスもなくなって、編集作業も随分と楽になりました。ところで、広報担当の高尾さんのご努力により、当会のホームページが充実し、この会の事業内容がよく伝わってきていることもあり、新規入会希望の方が増加しています。新規にご入会される方の中にはご自分でも会報誌に投稿してみたいとの目的意識をもって入会される方もいて、しかもそのような方はパソコンを駆使されますので、結果的に電子媒体での投稿が多くなって来ているのだと感じております。本年6月例会で発刊にこぎつけた会報78号は32名の方々にご投稿いただきました。そのうちの31名は電子媒体でのご投稿です。すなわち、当方で再入力する原稿を出されたのはお一人でした。もともと投稿原稿は手書きでも電子媒体でも自由に書いていただいて結構ですということになっていましたが結果的にはワードで作成し電子メール添付でのご投稿が圧倒的になってきたのです。時代の流れを感じております。
ところで、先日、会報78号で一人だけの電子媒体投稿でなかった方に相談を受けました。【「」は相談者、『』は編集者】「自分は投稿原稿をワードで作成し、電子メールをやらないので、ワード作成文書をプリントした紙原稿を編集者に郵送しているが、もっとうまく送ることはできないものかな」『ワードで作成されているなら電子メールで添付していただければOKです』「自分はメールはやっていない。女房はやっているみたいだが」『それでは奥様に頼んで送っていただけないでしょうか』「女房のパソコンにどうやって送ったらいいの」『例えばUSBメモリーってご存知ですか?』「USBだったら普段使っているよ」『それですべて解決です。データをUSBに入れて編集者に手渡すか郵送していただければ全て解決です』
この方はすでに80歳を越えていますが、常に前向きであふれるほどの知識欲をお持ちです。自分も見習うべきところが沢山です。年のせいにしていろいろサボってはいけないと自戒する次第です。

8)会報の俳画
会報78号を親友に見てもらい、感想を求めた。彼は歴史にはあまり興味がないとのことであったが、後日改めて連絡があり、以下の2点の指摘を受けた。
・研究論文の内容はレベルが高くてすべてに目を通す気力がなかったが、空白を埋める俳画がいい。俳画に興味をもった論文は読んだ。
・演題が平易で興味が持てそうな論文は読んだ。

改めて一幅の清涼剤のような俳画を長年書いてくださっている藤盛理事のご努力に感謝しております。 また、演題をどのようにつけるかも結構、大切だなということです。

令和になって最初の会報78号が無事発刊できました。これからも末永くこのコーナーを通して、編集部と皆様のコミュニケーションが図れることを願っています。

 昨年夏ごろから「平成最後の…」が枕詞のように使われ、終わってしまう時代をいとおしむような言葉を重ねる機会が多かったが、ついに改元され「令和」の時代となった途端、これからの新時代を夢見ることが多くなった感がある。今回のような譲位による改元は江戸時代の光格天皇以来の出来事であり、平成の天皇は約200年ぶりの上皇となられた。
「和暦」は我国独特の歴号であるが、最初の元号は西暦645年の「大化」とされている(さらに百年以上もさかのぼる6世紀前半の「継体」以来続いているという説もある)。とにかくこのように国の歴号が脈々と続いている国は他にない。「和暦」と「西暦」を同時に使わなければならず、「混同して不便である」と思うことも多いが、一方、「和暦は絶対に守る」と国民の大半が思っているのではなかろうか。「令和」という元号が発表された直後、新聞の号外に殺到する群衆の熱狂ぶりがそれを端的に物語っている。この「和暦」は千数百年間も継続されてきた日本独自の文化であり、誇りであり、他のどの国も全くまねのできない歴史の積み重ねなのである。
特に今回は、あらかじめ用意された元号であり、「どのような新しい時代になるであろうか」と期待感も大いに抱かせたのである。30年ぶりに「新時代」を迎えたこの国民の高揚ぶりはめったに経験できない出来事であり、歴史研究を共通の趣味とする横歴会員の皆さまにとっても、益々幸せな、有益な時間がなされるものと確信しております。
次回の会報79号の特集テーマは「改元」です。皆さま、奮ってご投稿のご準備を開始してくださるようお願いいたします。
(山本修司)2019.06.01
*78号の原稿は研究発表に掲載されています。また投稿に関する規定は 横歴会報「歴研よこはま」をご覧ください。

会報第77号発刊しました。

「歴研よこはま」77号には数多くの会員の皆様にご投稿いただき、深く感謝いたしております。初投稿の方が9名いらっしゃいます。その方の文末に【筆者紹介】をつけさせていただきました。改めて会員の皆さまの知識の多様さ、深さに驚くとともに投稿内容にも質の高さを感じております。
◇◇◇
平成最後の夏は酷暑だった。文明の利器・エアコンを使わねばヒトは死ぬと気象庁に脅かされ続ける日々が続いた。確かに冷房が故障したままの病院で高齢の入院患者がバタバタと熱中症の疑いで亡くなって、殺人容疑で捜査されたりした。熱中症で担ぎ込まれることもある病院でこのような事態が起こるとは全くの想定外であるが、ふと、エアコンなどあまり普及してなかった時代は扇風機程度で凌いでいたわけで、当時病院の院長もそんな感覚だったのかなあと思ったりした。
◆この熱波に加え、大地震(大坂北部地震、北海道胆振東部地震)、西日本大洪水、度重なる台風の被害等々、荒ぶる自然に翻弄されどおしだったこの夏、いまさらながら「大自然の前で人は無力」を知らされたのである。
◆この暑さにさらに暑苦しい思いをしたのがスポーツ界での不祥事であった。アメリカンフットボール・女子レスリング・アマチュアボクシング・女子体操等々でのいわゆるパワハラ問題である。どのTVでも同じ内容を延々と続けるワイドショーを眺めて過ごした夏でもあった。
◆しかしスポーツ界では明るい話題も多かった。大リーグに入り、二刀流で人気を集めた大谷翔平君(23歳)、アジア競技大会競泳で6冠、MVPも獲得した池江璃花子さん(18歳)、そしてテニス全米オープンで日本人初の王者となった大坂なおみさん(20歳)等の活躍である。いずれも「歴史的で信じられない快挙」とされている。彼・彼女らに共通しているのは「若さ」である。このような「若い力」の知恵がいずれ「災害列島・ニッポン」を根本から救ってくれることを期待したいものだ。例えば台風の進路を自在に操り、地震や火山噴火をより早く、正確に予知する技術開発などである。
◇◇◇
しかし、季節は確実に変わっていき、あの強烈な夏の記憶も薄れていく。「記憶」より「記録」が重要だと言われている。
◆歴史研究という趣味に浸り、「横歴」で研究発表や会報に投降し、記録を残すことも大切だと感じる次第である。
◆次回「歴研よこはま」の原稿締切りは平成31年3月末、配布日は同年6月例会日です。今からご準備を始めていただけたら幸甚です。
(編集後記)

横歴編集室のつぶやき その2

4)76号表紙写真
山口誠司理事に撮影していただいた表紙の二重橋の写真についてのエピソードはすでに6月例会時に口頭で話をさせていただいたが、話不足の点もあり、改めて紹介したい。口頭で話をした概要は以下である。
「来年春のご譲位が決まった今上天皇への心からの感謝を込めて二重橋の写真を表紙に使うことにした山口氏はご多忙中、天気のよい日をえらび、休暇をとり、朝、身を清めてから家を出て、まず東京駅で弁当を購入、皇居前広場で心静かに昼食をとり、日差しのよいころ合いを見計らって、渾身の思いでシャッターを切られたのである。このいきさつを牛尾印刷さんに伝え、できるだけ良い仕上がりになるようお願いした。牛尾印刷の奧さんもいろいろ努力され、『この紙質ではこれが限界です』といわれて出来上がったのが76号の表紙です」
ところで、初校でのこの写真の刷り上がり状態は山口氏の思いとはかなり遠いものであると私は感じた。そこで「この際、紙質を写真用のものに変えてみましょう」と提案、紙質を従来の紙、白黒写真用、カラー写真用、の3種類のサンプルを作成してもらうことにした。勿論、写真用紙を使うと印刷代はアップする。後日牛尾印刷さんを訪問し3種類のサンプルを比較してみると、従来の紙での刷り上がりがどういう訳か飛躍的によくなり、わざわざ写真用紙に変更する必要を感じなくなり、「申し訳ないですが従来の紙でお願いします」という結論に至った。どうも奥さんの職人魂に火をつけてしまったようだ。76号表紙を見るたびに今上天皇への心からの感謝と同時に、山口氏、牛尾印刷さんに深く感謝する気持ちが自然と湧き上がってくるのである。

5)76号最初の投稿原稿
今年、1月9日の横浜歴研総会において編集長役に任命された私は、未経験の役割に何をしてよいのか呆然としていたのが正直なところであった。同日開催された懇親会で近くに座られていた方々に色々と聞いて回ったところ、どうやら「編集長役として最も重要なのは原稿を集めることである」との結論に至った。その時点で改めて3月末日締め切りの76号への投稿原稿のあてが全くないことに気づいたのである。しかし、同時に前任の木村氏から1通の投稿原稿を預かっていることを思い出した。「これはA氏が数年前に投稿したシリーズものの原稿の最終回分です」と手渡されたものである。しかし調べてみると、A氏は昨年2月の例会に1度だけご出席しただけで、その後は全て欠席である。また今年度の年会費も未納となっている。翌日、さっそくご本人の会報投稿の意志確認のため、ご自宅に電話した。たまたまお嬢さんに対応していただけた。そして「父の健康状態はもう横歴に出席できるような状態ではありません」とのこと。当方からは、「かつて投稿されたシリーズものの最後の投稿原稿を預かっています。会則では会員に会報投稿の権利があり、そのためには年会費4000円を納めていただかなければなりません。」など事務的な説明をした。しばらくの間(マ)の後、お嬢さんは「では4000円払います。本人もきっと喜ぶと思いますから」との返事であった。2,3日後、会計担当に4000円が振り込まれたことを知ったのである。電話の様子ではA氏の病態はかなり深刻な様子であった。電話した時、お見舞いの言葉の一言も発することもできず、投稿原稿ほしさ一筋であった自分の気持ちを今ではチョット恥じている。「年会費払え」と言った時のお嬢さんのしばらくの間(マ)は「新手の振り込め詐欺?」と思わせてしまったのかな~と反省もしている。A氏の現在の健康状態は不明である。場合によってはA氏にとっては最後の投稿原稿となるのかもしれない。そんな心構えで自分としては丁寧に校正作業を進めた。A氏の回復を祈るのみである。そしてこれが76号最初の投稿原稿となった。

6)初めての電子メール
 B氏は電子メールが不得手である。当方が76号への投稿を依頼したときの会話は以下である(「…」は当方、『…』はB氏の発言)。「原稿はワードで作成していただけますか?」『了解。完成したら電話連絡するよ』暫くして電話があり、『原稿が出来たが、どのようにして送ったらいいの?』「電子メールとかUSBとかCDとかで送っていただけませんか?」『なに言ってんだかわからない』「では電子メールができる方に送付を依頼するわけにいきませんか?」暫く後に電話、『知り合いの女の子に頼んで送ってもらったが着いた?』「いや…届いていません」『彼女のパソコンは壊れていないと言っている。お宅のが故障してるんじゃないの?』「いや、当方のパソコンも壊れていません。他の人からのメールは無事着いていますから。メルアドの入力にでも問題があるんじゃないですか?」『メルアド?何言ってんだかわからない』「ご家族で電子メールをやっている人いませんか?」『息子がやっているようなので聞いてみるよ』暫くして電話、『息子に依頼した。2日後の10時~11時に時間が空くので送れると言っているので、お宅はパソコンの前で待機していてくれませんか?』私はその時間、美術館行を予定していたが事の重大さを考慮して予定変更、「承知しました。パソコンの前で待機します。無事届いたら電話します」そしてその瞬間を迎えたのである。「無事に届きました!!」『やったね~。よかった、よかった』B氏と私のその時の感動は極めて大きいものがあった。おそらく近くにいたら、2人は抱き合って喜んだのではなかろうか。メールが届いたというだけでなぜあんなに大喜びしたのか、今となってはよく理解できないが、あの時、ある種の達成感を二人で共有できたことは確かである。Bさん、さらなるご投稿、お待ちします。またあの感動(多分、ちょっと薄れているかもしれませんが)を味わいたいなと思っています。

横歴編集室のつぶやき その1

1)牛尾印刷さんの件
「歴研よこはま」の印刷は昔から鶴見にある牛尾印刷さんのお世話になっている。ここはご家族だけでやっている小さな印刷屋であるが、ご主人は最近あまり顔を見なくなり、自分と同年代と思える奥さんが一人で切り盛りしている感がある裏町の印刷屋さんである。この奧さんは寡黙で常に黙々とパソコンの前で作業されていてまさにこの道一筋の職人さんという雰囲気を漂わせている方で編者が訪問しても用件のみの会話でごく短時間の滞在しか許されないことが多かった。4月初旬に編者が「歴研よこはま」の原稿を持ち込んだ時のことである。
加藤会長の「八城東郷さんを偲んで」(76号6頁)に目をとめた奧さんは突然饒舌になり、若かった頃の想い出に浸るように「そうですか…お亡くなりになりましたか。八城さんには大変にお世話になったんです。あの頃は和文タイプライターの時代で、一文字間違えると1頁分打ち直さなければならなくなり、生まれて間もない息子をおんぶしながらの作業で結構きつい仕事でした。それにくらべりゃパソコン時代になった今の作業は楽ちん楽ちん。なんせ歴史研究会さんとは30年以上の付き合いですので…。息子も家業を継いでくれることになりましたし、その嫁も最近、パートをやめて家業見習いを始めてくれているんです」等々急に打ち解けた会話が成立し、「歴研よこはま」の今後の出版に一抹の不安を抱いていた編者も胸をなでおろしたのである。
最終稿が出来上がった時、奥さんは「八城さん追悼の辞の標題の枠(左上、右下に追悼花をあしらったもの)はこれにしました」と言われた。心温まる加藤会長の八城名誉会長への追悼文にさらに印刷屋さんからの心からの弔意が加わった追悼の辞に仕上がったのではないかと心密かに思うのである。

2)俳画の件
「歴研よこはま」に挿入されている俳画にご注目いただきたい。76号には13枚もの俳画が描かれている。いずれも藤盛詔子理事に描いていただいたものである。この俳画が読み手に安らぎを与え、一幅の清涼感をも与えてくれていることはこれが無いことを想定すると容易に想像できるのである。この俳画を藤盛氏は10数年にわたって投稿し続けられおり、氏には深く感謝する次第である。ある時、この俳画作成の苦労話を藤盛氏にお聞きしたのだが、彼女が照れながらも淡々と述べられたのは「油絵などとちがい、一発勝負なので満足がいくまで何枚も何枚も練習し、そして最後の精神統一が必要。日本紙は高価なので失敗したくない。墨をピタリと90回すり、濃さの統一が必要。しかもボカシを入れる処がこれまた難しい」とのことで、画ゴコロなど全くない編者であるが、会報出版の度に藤盛氏は大変な努力をされていることがわかった。
藤盛氏には感謝、感謝である。

3)締切日過ぎての最後の投稿
63頁の「会員活動報告」の項目で、4月22日前橋での長尾氏の講演の話である。3月3日の例会後、編者は長尾氏と雑談しながら懇親会会場へと向かっていた。まだ寒い風の吹く時期であった。普通に会話していた氏は懇親会会場近くにきてから「急に寒気を感じました」といいながら地下鉄関内駅の階段をおりていかれた。後に聞いたところでは氏はその夜半、40℃近くの発熱、翌日医者に行ったら当時はやりのインフルエンザに感染され、いったん回復されたが、こじらせてしまい3月末まで入院されたとのことであった。氏の体調の心配もさることながら、編者としては4月22日の前橋での氏の講演が無事行われるかも心配であった。というのも講演が行われたという前提で若干の不安を抱えながらも、4月上旬に記事を書き上げ、印刷屋に出してしまったのである。5月6日の例会時、お元気になられた氏にお会いし、講演会も盛大だったことをお聞きしたときはホットし、その結果をふまえて原稿を改定し直ちに印刷屋さんに送付した。これが76号最後の投稿となったのである。
皆様、くれぐれもご自愛ください。

会報第76号発刊しました。

  2018.05.31

今号より編集者が交代しました。皆さまの会報投稿へのお手伝いを従来同様、一生懸命させていただく所存ですのでどうかよろしくお願いいたします。
日本選手が大活躍の韓国・平昌での冬季五輪が無事終り、金メダルが男子フィギュアスケートの羽生弓弦、女子500mの小平奈緒、スピードスケート女子団体追い抜き(高木美帆、高木菜那、佐藤綾乃、菊池彩花)、そして新種目の女子マススタートの高木菜那の四個であり、大いに沸きました.
◆試合後、数々のエピソードが明らかになりました。羽生選手は右足首の大怪我を抱えた状態での出場であったことや、小平選手が自国開催の大変な重圧の中、結局銀メダルに終わり大泣きの韓国選手に駆け寄り両者は抱き合ってお互いをほめ讃える姿とか、姉妹で合わせて五個のメダルを獲得するという偉業をなしとげた高木姉妹が実は性格がかなり異なりお互いに相当な葛藤があったこと等々、金メダルという結果のみならず、これらの人間ドラマがさらに感動を呼びました.
◆ところで日本ではいずれ労働人口の約半数がAI(人工知能)やAI搭載ロボットで代替できるようになるといわれています。AIは、ビックデータとよばれる膨大な情報を分析、学習し、さらに賢くなっていくとのことで、すでに一部のコンビニ、スーパー、空港等の接客にその導入が始まっています。また将棋や囲碁の名人を打ち負かし、さらには小説や新聞の記事も書いてしまうそうです.
◆現在、国宝や重要文化財の公開は劣化防止のため原則、年六十日までと制限されていますが、AI搭載ロボットで3Dプリンターのデジタル技術を駆使すると、「高性能レプリカ」が簡単にでき、複数の場所で同時に国宝と全く同じ外観のものが拝観できるようになるのです.
◆伊勢神宮での二十年ごとの式年遷宮の行事での宝物復元にもこの技術を応用するようになると古代から営々と受け継がれてきた技がいとも簡単に再現できるようになってしまうのです.
◆こうなると、魂の継承はどうなっていくのか、単なるレプリカに、崇拝の念がいだけるのか等々考えると寂しくなり、歴史の重みや有難みが薄れてしまうのを感じてしまうのは編者だけでしようか.
◆歴史研究はものすごく人間ドラマ的であるところが魅力だと思いますが、我々の子孫が歴史上の「敗者の言い分」それに伴う様々な「伝説」「悲話」を調査し、自説を唱えるのも難しくなっていくのではないかと危惧してしまうのです.
◆人間臭さ満載の古事記、万葉集、源氏物語、太平記等々の読み物が今後現れるのかも心配です.
◆AIを駆使した政治が行われるようになり、TVドラマの名セリフ「私、失敗しないので」ということになると、将来は歴史を語る面白さが薄れてしまい、この「歴研よこはま」も味気ないものになっていくのかなあと思ったりもしております.
◆しかし、当面は大変に内容豊かな会報誌として存在し続けることができるのです.
◆今後とも研究論文、エッセイ、俳壇、歌壇、詩壇、写真、俳画等への会員の皆様からの積極的なご投稿をお待ちします.
◆味のある「歴研よこはま」を残しましょう…
〈会報No.76 編集後記〉

 

 

35周年記念誌「壮志」発刊しました。


明暦2年(1656)7月、江戸の木材・石材業吉田勘兵衛などは現在の横浜市中区・南区に広がる入海の干拓工事を始めました。一時洪水により頓挫するも勘兵衛は、これでよした(吉田)らかんべい(勘兵衛)ならぬと自身を叱咤し再度着工。寛文7年(1667)に完成したのです。これが吉田新田で、本年で完成350周年の佳節を迎えました。この完成が、後年に横浜開港の基盤となり、そして現在の国際港湾都市横浜の礎となったのです。創る人がいて、引き継ぐ人がいて後世に大輪の花が咲きます。
奇しくも横浜歴史研究会も本年で創立35周年の節目となりました。創立時からの来歴は、小誌の「横歴回顧録」や「菅原啓一郎顧問と石関貞治顧問の対談」及び「横浜歴研25年~時のかたみ」を一読され、さらに高尾隆常任理事のご尽力により完成したDVD「横歴150の夢~星空の旅~」の映像をご覧いただければ、当時の様子が彷彿とさせられ、十分ご理解いただけると思います。なお余談ですが、映像については「エイゾー、エイゾー」との称賛の声が多く寄せられています。いずれにしても今日の横歴の興隆は、先輩方の苦闘に感謝し敬意を表するものです。
またDVDで会員お一人おひとりのメッセージが披露されるところは特筆に値します。小学3年生から97歳までの会員間の年齢差もさることながら錚々たるメンバーばかりで、まさに横歴は人材の宝庫と実感し感動いたしました。
さて、会報の役割は、会員の研究成果の発表の場ですが、併せて先輩たちの精神を引き継ぐ場であり、また会員同士の絆を強める場でもあります。編集者として忘れないよう心掛けてまいります。
さあ、私たちは今日から創立40周年に向けて前進しましょう。レッツラ・ゴー。
(会報「壮志」編集後記)